飯山陽「自由社会の敵 日本保守党との死闘」(ワック 2025)を読了する。
最初に確認しておかなければならないが、本書で「日本保守党との死闘」と称される事態の概要はすでに藤岡信勝氏による、『WiLL』4月号(ワック 2025)に掲載された「日本保守党への公開質問状」(30-39)で端的に示されている。この論考は、こうした《政治的な事案》を主題としたものとしては異例な読後感と体裁を有していると、私には思える。前者は《清々しい読後感》と云ってよく、その中心は後者の中心である《私を主語とした文体》によるところが大きいと思える。とはいえ、むろん藤岡氏はこの論考を終始《私》を主語として論述しているわけではない。だが、冒頭から使用される主語は《私》であり、それが読み手の有する「日本保守党への期待」(30)や「飯山氏の当選を熱望」(31)とーーそこには一定の熱量の差異はあるもののーー確かに対応していると云えるだろうし、自らの視座をできる限り飛翔させたままにしないとする流儀は最後尾でも同様であると云えるだろう。「これはどう見ても「壮大な詐欺」です。……ただし、ここで「詐欺」という言葉を刑事犯罪の意味で使っているわけではありません。しかし、ここまで見事に騙された有権者としては「詐欺」と表現する以外に適当な言葉がみつかりません、みんな騙されていたのです」(39)。こうしていよいよ感動的なフレーズが結びとして登場することになる。曰く、「もし、私の主張に対して百田氏と有本氏に反論があるのであれば、お待ちしています。それに対して、『WiLL』編集部も拒絶することはないでしょう」(39)。
だが、藤岡氏だけでなく私(たち)に熱望された「反論」は《論》として何一つ提示されることはなかった。その代わりに用意されたのが飯山氏への「スラップ訴訟」(本書 19)に象徴される一連の《攻撃》と云うことになる。そうした意味合いで語れば、本書『自由社会の敵 日本保守党との死闘』の読後感には《あらゆる意味での清々しさ》は微塵もないだけでなく、むしろそれとは正反対の《鬱陶しさ》や、あるいは語られている事象への《嫌悪感》で溢れることになる。
以前にも書いたように、私は『エジプトの空の下』(晶文社 2021)を読んで以降、飯山陽氏のファンを自認しているが、それだからと云ってその政治的なスタンスの一切を支持しているわけではない。だが、本書を読み進める段階で、それこそ「はじめに 日本保守党に訴えられました」(1-21)を読み進めている段階ですでに、《飯山氏支持》を語りださなければならないと思うようになっていた。それは、飯山氏に関わる「ニチホ」の所業があまりにも醜悪極まりないものと思えたからである。飯山氏の論述は一貫して具体的な《事実》に基づいて為されている。所謂「事実」なるものが《すでに常に解釈された事実》であることは承知している心算だ。だが、これらの一連の出来事連関において基本的な構図とはアクションを起こす「ニチホ」サイドと、それに対するリアクションが飯山氏である。つまり、こうした構図内において構成される《事実群》は特別な処置を必要とすることなく、むしろ常識知あるいは《共通感覚》に基づいて対処可能であろう。いい換えると、飯山氏は具体的な《事実》に基づいて論述されていると云ってよいだろう。そうであれば、私が取るべき途は一つだけであろう。《義を見てせざるは勇無きなり》。ぜひ多くの方々に本書を読み、じつに《嫌な気分》を味わい、そしてどこに《義》があるのかを見極めてもらいたいと熱望する。
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