December 09, 2019

世界銀行と《トランプ発言》

 ロイター通信が興味深い記事を配信している。それが、「トランプ氏、中国への融資止めるよう世銀に要求」である。「世銀」とは「世界銀行」のことなのだから、何とも妙な話題ではある。そもそも「世界銀行」は、そのWebサイトのトップで次のように謳っている。

世界銀行は、貧困削減と持続的成長の実現に向けて、途上国政府に対し融資、技術協力、政策助言を提供する国際開発金融機関です。 世界銀行グループは、2030年までに極度の貧困をなくし、各国の下位40パーセントの人々の所得を引き上げて繁栄の共有を促進するという2つの目標を掲げています。」

「世界銀行は、貧困削減と持続的成長の実現に向けて、途上国政府に対し融資、技術協力、政策助言を提供する国際開発金融機関」だと自らが語るのであれば、明らかな矛盾と云う他はない。トランプ氏は「WHO」では「韓国」も含めて問題にしていたが、《中国が発展途上国と自称しても、それが通用するか否か》は少しだけ理論的に考えただけでもすぐに解明的になるだろう。その意味では、すでに《正答》は提出されているのだが、当該記事を確認しよう。

「トランプ米大統領は6日、世界銀行が既に承認した中国への融資計画について、止めるよう求めた。/世界銀行は5日、中国に対し2025年6月まで、年間10億─15億ドルの低利融資計画を認めた。世銀は、向こう5年の融資規模について、それまでの5年の年間平均18億ドルから段階的に縮小させる計画だと説明している。/これに対してトランプ氏はツイッターに「なぜ中国に融資するのか?こんなことは可能なのか?中国には十分金がある。なければ中国は作り出すことができる。(融資計画を)止めろ!」と投稿した。 」(太字強調は張江。)

トランプ氏の発言は物議をかもしだすことが多いので気になって読んでみたが、これは至極当然の反応だろう。《融資のための銀行を創出し、新たで膨大な経済圏を構想できる》のは、《誇大妄想》でなければ、大国に違いない。それが何故に「発展途上国」とし、融資まで受けると云うのだろうか。しかも、この大国は《他国民を自国民へと仕立て上げ(自治区)、その人びとの文化を根絶やしにしようとする》、そんな大国である。そこに融資する積極的な根拠がどこにあるのだろうか。これは《開発独裁の是非》の問題系とは異なるだろう。

世界銀行はロイターへのメールで「中国への融資は速いペースで減っており、米国を含めた全ての出資国との合意の一環として今後も縮小する」とし、「国が豊かになれば融資も打ち切る」と説明した。」

世界銀行によれば、あの《大国》は未だ「豊か」ではないらしい。とはいえ、その国の諸地域や《戸籍に基づく階層化》による貧富の極端な格差が存在するにしても、それが「豊か」ではない理由にはならないのではあるまいか。逆にそれを肯定するとすれば、それこそ、かの大国の常套句である《内政干渉》となるかもしれないだろう。かの大国が一貫して創作した機構は《後進的なもの》ではなく、《前衛的なもので、世界史的な偉業》とされているのだから。つまり、《結果的にそうなった》のではなく《意図的に、そのように創造したもの》と自賛し、《国家の上位に、その前衛的な機構がそびえること》をもって《国内総生産で世界第2位を誇るにいたった》と自らが語る以上、それを《後進性》と認定するのは如何なものだろうか。どのようにみても、《中国は大国であり、世界銀行が融資すべき後進国ではない》と結論づける他はない。

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December 07, 2019

『長野』第314号を落手する。

 ひょんなことから、長野郷土史研究会青年部長の小林竜太郎さんと知り合う。じつに気さくな人物で、近年に知り合った方々の中で特筆すべき《人柄のよさ》を感じさせる。そうこうしているうちに、『長野』第314号(2019の3(冬))が届けられた。記して感謝を申しあげる。小冊子ではあるが、小林さんがお一人で編集されたのだろうか、細部までよく気配りがなされている。表紙には「石祠に安置される前の聖徳太子像(長野市妻科)」の写真が置かれ、その裏表紙には「聖徳社(長野市妻科)の祭 2019年10月13日(日)」の模様がわかる写真4枚が配置されている。この「聖徳社」に関しては、コラム「聖徳太子信仰を伝える妻科の聖徳宮」(小林玲子)に詳しい。

長野県庁の北側に、善光寺三鎮守で善光寺七社のひとつ妻科神社(長野市妻科)があります。神社の正式な地籍は、大字南長野字本郷です。その東南一帯の字名を聖徳と言い、聖徳沖と呼ばれています。聖徳は県庁通りをはさんで西側の妻科と、東側の県町や後町まで広がる一帯の字名です。「グランドハイツ聖徳」(県町)というマンションも建っています。字名の「聖徳」とは聖徳太子のことで、妻科に聖徳社(聖徳宮)があるからです。(60)

地名は行政などの都合で変えてよいものではない。このコラムは、それを雄弁に語っている。

 その他にも、「共和、川中島の両国民学校に駐屯した「水戸の工兵隊」について(その二)」(土屋光男)が、まさに郷土史の現場を感じさせて秀逸だ。「一茶の宿泊日数を数え直す(続)」(小林一郎)・「北信濃の俳諧を指導した小林迎祥(四)」(矢羽勝幸)・「宗良親王と信濃村上氏について」(志村平治)・「読んで歩いた長野(2)津村信夫の「雪」」(柏木希望)・「インターネット・AI時代の郷土史・地方史雑誌への提言」(小林竜太郎)・「クイズ はじめの一歩」などが掲載されている。こうした長野郷土史研究会はじつに歴史ある組織のようだ。「1964年1月創刊」とあるから凄い。《継続は力なり》とはよく云ったものだ。代替わりを繰り返しながら、こうした維持が可能なのはおそらく《地方の中核都市居住》であることが大きく関わっているように思うが、いずれにせよ、《地方文化の底力》を感じさせる小冊子である。

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December 06, 2019

『メディカル・ジェノサイド 更新版 中国での移植濫用―まやかしの改革』の紹介。

 予告のとおりで、『UPDATE ON  MEDICAL GENOCIDE メディカル・ジェノサイド 更新版 中国での移植濫用―まやかしの改革』を読了する。解っていたことではあるが、《あまりの酷さ》に何度も中断し、眼をそむけたくなる。その意味では、自らが《信じたいもの》が何かを否が応でも現前化させられる読書行為になった。『SMGネットワーク STOP MEDICAL GENOCIDE 中国における臓器移植を考える会』のサイトでみることができる。さて、「中国臓器収奪リサーチセンター 2018 年報告書のまえがき」は抑制的な文章ではあるが、いきなり正鵠を射たものになっている。

「中国は急速に医療とライフサイエンスでの能力を発展させた、高度に洗練された国家である。中国の臓器移植業務の年月は比較的浅いが、音を立てずに世界最大の国家として興隆している。不幸にも、国内需要および国外からの移植ツーリズムの要請に応えるための臓器獲得の政策は、中国の移植医療界の技能や専門知識に追いついてきていない。この丹念に裏付けられた傑出した報告書が示すとおり、中国では今なお、人権侵害を許し、自国の民族をぞんざいに扱い、移植臓器獲得のための殺人が許されている。」

委細は、やはりこのパンフレットを読んで各自が判断されるのが一番だと思えるが、「中国では今なお、……移植臓器獲得のための殺人が許されている」ことはどんなに強調してもし過ぎることはないだろう。次に、「今なお」の経緯について確認しておこう。この点は、「小冊子の改訂版発行にあたって」に詳しい。なお、引用ヵ所に存在する「注番号」は外してあるが、実際に読まれるときには、これらの「注」は《論拠の提示である》ので割愛せずに確認されることをお勧めする(以下同様)。

「2015 年、中国は「死刑囚からの臓器摘出を停止し、倫理的な臓器源へと完全に切り替えた」と主張。以来、国際的な PR 活動が行われ、偽造データ、効力のない計画のプレゼンテーション、中国の病院への国外の専門家の招聘を通して、多くの国際的な移植機関や政府が「臓器提供と移植に関する中国モデル」や中国が成し遂げた改革を受け入れている。/しかし、2017 年 10 月、韓国の大手テレビ局が中国最大手の移植センターである天津の東方臓器移植センターに調査ジャーナリストを送り込んだところ、中国政府の主張とは真逆に、数日から数週間で臓器入手が可能と言われた国外の患者が、中国に群れをなして渡航していた。患者からの金銭的な「寄付」があれば手術は前倒しにされるということだった。国外の患者は近くのホテルにも収容されており、同センターの年間移植件数は数千件と推定されている。」

これが「今なお」の意味である。それにしても《前衛党によるプロパガンダ》はもの凄いものだ。こうやって《世界はまた騙される》ところだったのだが、「韓国の大手テレビ局」のお陰で、「中国政府の主張とは真逆」であることが判明することになるわけで、しかも「寄付」の如何で《事態が変更される》、これはれっきとした《商売》であるが、その論点に移行する前に、基本的な《問い》を確認しておこう。

「中国の臓器移植産業はどのくらいの規模でどのように発展してきたのだろうか? 倫理的な臓器移植の枠組みに、どの程度まで転換したのか? 囚人の臓器がオンデマンドで 収奪されている証拠はあるか? 中国での大量の移植件数が自主的臓器提供では支えられないとすると、他に考えられる臓器源は何か? 何がこれほどまでに移植濫用を駆動させているのだろうか?」

これらの基本的な問いに真摯に応えたのが、この報告書である。繰り返しになるが、ぜひこの報告書を読んで考えていただきたいのだが、《プロパガンダによる夢から醒める》ために、中間部にある「6.犠牲者」と、後半部にある「10. 信じ込まされていることと事実信じ込まされていることと事実」の一部を紹介しておきたい。

「1978 年、中国の政治犯から臓器を摘出したことが臓器収奪の最初の記録である。1984 年、特定の状況下で国家の自由裁量のもと、囚人の身体と臓器を使うことを許可する規制を、複数の政府機関と省庁が合同で公布した。その後、中国は、小規模で良心の囚人と少数民族の臓器を使い始める。/中国の移植産業は特に目立った発展をみせてはいなかったが、2000 年に臓器移植を国家戦略の中で優先し始め、研究・開発・産業化・養成にかなりの資金が注がれた。自主的臓器提供なしで臓器移植は飛躍的に増加した。これは中国政府が法輪功を撲滅させるための運動と並行している。」

《江沢民による法輪功への弾圧、そしてジェノサイドへ》、これと《臓器移植産業》が連動する。そして、それを《隠すためのプロパガンダ》が大々的に実施される。だが、「2000 年以来、中国政権は、臓器移植手術を未来の新興産業として国家戦略の優先事項に位置づけた」。その《隠蔽が大規模なプロパガンダ》となる。

信じ込まされていること:「2015 年以前は、臓器源のほとんどは有罪判決を受けた死刑囚だ」。 事実:中国での移植件数は 2000 年以来激増し、1999 年から 2005 年にかけて肝移植だけでも30 倍に跳ね上がった。政府が 164 軒の移植認定病院に義務付けた最低要件から見て、年間に 7 万件以上の移植手術を行える可能性が最も高い。/これとは対照的に「中国での年間の死刑執行は数千人」と多くの情報源が推定しており、処刑数は 2000 年以来、下降している。さらに毎年10%の割合での処刑数の減少を黄潔夫自身が裏付けている。死刑囚からの臓器で、中国での移植件数をまかなうことは不可能である。/さらに黄潔夫は、2015 年、中国は完全に自発的臓器提供に移行したと発表している。しかし、自主的ドナー数が低く横ばいである中で、移植件数と処刑者数の格差は広がる一方で、公式発表された臓器源からでは説明がつかない。/中国政府は良心の囚人を法的手続きなく臓器のために殺害していることを認めていない。このため、死刑囚からの臓器は使用しないという中国側の主張には、良心の囚人は含まれていない。中国で行われている移植件数に見合うためには、大規模な殺害の継続が要されることは独立調査で示されている。しかし、中国政府は処刑された囚人について語り続け、良心の囚人の殺害から世間の目をそらせてきた。 

ここでは、「信じ込まされていること」シリーズの最冒頭部の紹介に留めるが、《神話といってもよい》あるいは《せめてもと、自分自身が信じたい最低ライン》が《事実》によって次々に暴かれ、これでもかこれでもかと覆されていく。むろん、この《メディカル・ジェノサイド》には、《法輪功だけではなく、チベット人やウイグル人》も含まれている。そもそも《死刑囚であれば、その臓器を収奪してよい》ということ自体がまちがっているのだが、《独裁政権が繰り出す言説空間に居る》とそうした自明な地平的な了解そのものが意味をなさなくなってきて、気がつけば、ある種の《ゲシュタルト崩壊らしき気分》に陥ってしまう。

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December 04, 2019

「米下院、ウイグル人権法案可決」!

 『niftyニュース』に時事通信による「米下院、ウイグル人権法案可決=中国「強烈な憤慨」と反発」が掲載されている。まだ下院を通過したに過ぎないが、少しでも《ウイグル人ジェノサイド》への抑止効果を発揮すればよいと祈るばかりだ。とはいえ、《香港に比して遅い》という感じは否めない。それにしても、日本の政府、そして国会はいったい何をしているのかと訝しく思わざるを得ない。

米下院は3日、中国新疆ウイグル自治区のウイグル族への弾圧に対応を求める法案を賛成407、反対1で可決した。上院で可決し、大統領が署名すれば成立する。香港デモへの対応で中国をけん制する「香港人権・民主主義法」が成立したばかり。ウイグル法案も成立すれば米中の貿易協議の行方に影響を及ぼすのは必至だ。

《満場一致》は何とも気味が悪いので、この数字に異論はないが、それでも「反対1」がどのような根拠によるものなのかは気になるところだ、おそらくは《内政干渉という形式論理》あたりではないかと推察するが……。いずれにせよ、大統領が署名されることを期待する。

中国外務省の華春瑩報道局長は4日、法案可決を受けて談話を出し、「強烈な憤慨と断固とした反対」を表明。「米側は直ちに誤りを正し、法案成立を阻止し、中国の内政に干渉するのをやめるよう促す」と強調した上で、米側の対応次第で「さらなる反応を示す」と警告した。

《内政干渉はすべてに優先する基準値ではない》。ほんとうにいい加減にして欲しい。ところで、『ロイター通信』が「米下院、ウイグル人権法案を可決 中国政府高官の制裁指定要求」で、より適切に詳しい内容を伝えている。

上院が9月に可決した同様の法案を修正し、より強硬な内容にした。具体的には、共産党政治局委員で新疆ウイグル自治区の党委員会書記を務める陳全国氏を制裁対象に指定するようトランプ大統領に求めている。成立すれば、政治局委員の制裁指定は初めてとなる。/また、イスラム教徒への虐待を非難し、新疆ウイグル自治区の北西部にある大規模な収容施設の閉鎖を要請するようトランプ氏に求めている。/中国はこれまで一貫してウイグル族の人権侵害を否定しており、収容所は職業教育訓練センターだと主張してきた。陳氏が制裁指定された場合は「相応の」報復措置を取ると警告してきた。

何故に「共産党政治局委員で新疆ウイグル自治区の党委員会書記を務める陳全国氏」という肝になるべき固有名が、『時事通信』や『産経ニュース』「米下院、ウイグル人権法案を可決 中国「内政干渉」と反発」では消えるのか、理解に苦しむ。「中国はこれまで一貫してウイグル族の人権侵害を否定して」とあるが、たとえば土葬が慣習のエリアでそもそも火葬施設を備えた「職業教育訓練センター」が何故に必要なのか、答えられるのだろうか。《ウイグル人へのジェノサイド》を許してはならない。その一端を示す『MEDICAL GENOCIDE』のリポートを、いずれこの場で掲載したいと考えているが、最後に、その内容提示文を紹介しておこう。「メディカル・ジェノサイド ~中国の臓器移植産業の隠れた大量虐殺~ 現在中国では、国内で自主的に臓器を提供する者はほとんどいない。中国政府は死刑囚から臓器を摘出していることは認めているが、その数は中国国内での移植件数に比べてわずかに過ぎない。10年の調査に基づく、臓器源の真相に迫るドキュメンタリー。無実の犠牲者数は毎年数万人に上ると推定されている。人道に反する犯罪を暴く。」

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December 01, 2019

栗林輝夫『現代神学の最前線』を読了する。

 栗林輝夫『現代神学の最前線』(新教出版 2004)をおもしろく読んだ。本書のサブタイトルである「「バルト以降」の半世紀を読む」が端的にその内容を明示している。情報量は《詰め込み過ぎ》と思わせるほどに多彩かつ大量であるが、《軽いタッチ》で読み進めることができた。だが、著作の性格があまりにも異なるので、《ないものねだり》と云われればそのとおりなのだが、たとえば直近に読んだ神学系であれば上村静『旧約聖書と新約聖書』の《わがままにオレ流をとおす》作品のほうにはるかに好感を持てた。その理由は後述するとして、本書の基本性質を少し紹介しておきたい。《非神学系あるいは非キリスト教系で、かつ少しは神学的な知識があったほうがよりよいと考えている程度の読者》の一人である私からすると、「「バルト以降」の半世紀」に生起した《神学の諸潮流》で知っているのは、本書で一押しの「解放神学」ぐらいであった。それ故、「世俗化の神学」(第2講)とか「ラディカル神学」(第3講)・「政治神学」(第4講)などまったくの初物であったが、楽しみながら読むことができた。第5講「黒人神学」や「フェミニスト神学」(第6講)は《知らなくとも、ある程度の予測は付く》ものだった。第7講「解放の神学は貧しい者を選択する」はなかなかの圧巻だったが、もっとも気になる場所であり、これも後述したい。「アジア神学」(第8講)は本書にとって触れるべき必然性を感じないが、内容的には《ヴァナキュラーという深層への注視》が明示化されていて興味深く読めた。「宗教の多元神学」(第9講)は自己解体の様相を感じ、「プロセス神学」(第10講)・」「福音派神学」(第11講)に「リベラル「崩壊後」」は、それまでの「リベラル神学」による《推進力に陰りがみえて以降の布陣》として読むならば、《政治思想や政治哲学》とほとんど同等だと感じる。第12講「ポストリベラル神学が語る教会の物語」に論じられている「物語の神学」への親和性を感じ、もう少し読みたいと思った。「修正神学」(第13講)や「ポストモダン神学」(第14講)では《多様性としての多様性という「現代神学」の現況》がよく理解できる。「宗教右派は神国アメリカをめざす」(第15講)は《あってもなくても、どうでもよい》。これに最終稿「おわりに」で全体的な《総論》が語られ、「現代神学史年表」が附されている。

 網羅的が過ぎると思っていたが、「あとがき」によれば、これでも《不満がでる可能性》に触れられていて、それはそれで了解できる。さて、本書の《どこが問題なのか》を述べることにしよう。まず、一貫性があるようでないとことが挙げられる。「はじめに」(第1講)で本書の性格を栗林氏は次のように述べている。

「本書は一九六〇年代の世俗化の神学を皮切りに、二十世紀後半から今にいたる五十年あまりの神学潮流の変化を概観し、解放神学、フェミニスト神学、ポストリベラル神学、ポストモダン神学、そして最後に宗教右派の神学など、そうした諸思想を解放的な視点から評価しようとするものである。」(12-13)

この冒頭の文章の《どこに問題がある》のか。それは自らの視点の設定が理解できない表現になっているところだろう。栗林氏自身がわざわざ太字で強調しているのだから、「解放的な視点」とは、用語法として《すでに流通している、謂わば自明かそれに近い概念》であるか、少なくとも《(読者である)私にとって、今は不明であっても読み進めるに従い理解できるもの》と想定されていると予測できる。だが、その仕掛けは私が読了した中では観つけることができなかった。唯一の類似的な言説は、「おわりに」にみられる。

「バルト以降から現在のポストモダンまでの概観に添えて、本書がもうひとつ試みたのは、そうした諸神学を解放主義の視点から論評し、現代キリスト教のパラダイム・シフトを跡づけることだった。」(256)

ここでは強調のために太字は2ヵ所に附されているが、ここでの文脈では「解放主義の視点」が重要であることは確かだろう。すると、「はじめに」と「おわりに」には、それぞれに「解放的な視点」と「解放主義の視点」とが配置されていることになる。この用語法は何なのだろうか。はっきりとしたことはテクストから《解読すること》はできないのだが、もしかすると「解放的な視点」と「解放主義の視点」とは同義かほほ同義に使用されているのだろうか。この《邪推》が的を射ているとすれば、ずいぶんと粗雑な概念使用と云わなければならないだろう。「解放主義」は少なくともそれが「主義」である以上、何らかの《思想的な主張》を含意している。むろん、「解放」にはそうした意味合いは、通常はない。

 このルーズさは、本書の文体の軽快さを担保する側面で機能しているとも云え得るのだが、上記のように、栗林氏にとっては自明な内容であるかもしれない用語法によって、《読者をポツンと置いてきぼりに》する。しかも、これは「解放」あるいは「解放主義」といった用語法の問題系に留まらないのではないか。というのも、これが終始「解放神学」をすでに常に含意しているようにも、《ここかしこ》に読み得るからである。だが、そうであるとすれば、最後に1つの問題系が浮上する。それが、《解放神学を語り得るのは如何なる位相においてか》という問いに収斂させることができる。次の手がかりから始めよう。

 「解放の神学者は虐げられた者の声に聞こうとしてきた」(119)。この不可思議な短文は、通常ならば「〇〇神学者は××の声を聞こうとしてきた」となるのではあるまいか。《SはOを聞く》のであって、《Oに聞く》のであれば、やはり《何を》がなければ不完全だろう。だが、栗林氏はそうしない。むろん、これは意図的だろう。何故、《何を》が不在なのか。先の短文の前後を、つまりその文脈を確認しよう。

貧しい者は神を知る特権的な場にあるという、独特な視点の提起は積極的に受け止められるべきである。解放の神学者は虐げられた者の声に聞こうとしてきた。歴史の犠牲者らの間に、神の救済的な場があるとして、そこからいっさいのキリスト教の再解釈を試みた。 [中略] 解放神学は第一世界が当たり前にしている社会/経済上の諸前提に疑問符を投げかける。その常識、価値、信念、言語に挑戦して、北の世界が南全体に見えざる経済的・軍事的権力を振るい、そこに生きる民衆の収奪に加担している現実をあらためて浮き彫りにする。」(118-119)

「解放の神学者」が「聞こうとしてきた」のは「虐げられた者の声に」、おそらくは《神への通路(らしき何かを)》であったのではないだろうか。ここは、神学的には《重大な契機》であるのだから、そもそも用語が異なっているのかもしれない。たとえば、それは通路ではなくより直接的な《神の声》あるいは《啓示》であるのかもしれない。その意味で云えば、「虐げられた者の声」とは《神に関わる手段》でしかないことになる。通路は通路でしかないのだから。

 いずれにせよ、日本という「第一世界」の住人である栗林氏に突き付けられた「現実」とは、第三世界で「生きる民衆の収奪に加担している」というものであるようだ。それに対するかれの《倫理的な応答》とはどのようなものだろうか。「貧しい者が語り、虐げられた者から学ぶことを通して、すべての人間の解放の言説になること」(119)が肝要であるらしい。こんな《お説教》ならば、1970年代頃に読んだ《解放神学の紹介文》とどこが異なっているのだろうか。否、ここは「キリスト教のパラダイム・シフト」を描写する途上の議論なのだから、かれの《本来的な神学を別途に読むべき》なのかもしれない。だが、そのようには書かれていない。たしかに、第三世界においては、「貧しい者」や「虐げられた者」という存在者はすぐに知られる《自明な者たち》であるのかもしれない。だが、《読者が属する第一世界》において「貧しい者」も「虐げられた者」も自明ではない。所謂《社会的弱者》は文脈依存的であって、しかも《弱者》とされるための社会的な構成は制度的に安定したものでもないだろう。少なくとも栗林氏は、《そんな次元のことは語っていない》と言うのだろうし、そのように書かれていないは事実だ。だが、そうなると、私は《どこの誰とも知られない、「貧しい者」や「虐げられた者」の現実(とやら)に倫理的な責任を負う》ことなぞできないと応える他に途はない。せっかくの《快適な読書行為》も、こうして《台無しになる》のだが、むろん本書は読むに値する良書ではある。

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November 30, 2019

真鍋厚氏の言説への《藪にらみ》!

 『東洋経済ONLINE』に真鍋厚氏による「グレタへの強烈な賛否が映す世代闘争に潜む罠」が掲載されている。真鍋氏の着眼点はある一点で《慧眼》と云わざるを得ないが、むろん問題性もある。まずは、かれの主張の中心部を確認したい。

現在の世界的なムーブメントを後押ししているのは、「近い将来に人類が破滅的な事態に直面する」という、切羽詰まった「終末論的な」認識である。一説では、2040年前後に“世界が終わる”という。これはかつて冷戦時代に最盛期を迎えた核戦争の恐怖を背景にした「反核運動」を髣髴とさせる。/ここで非常にわかりやすい補助線となるのが、若者が先頭に立つムーブメントであるということと、自分たちより年上の世代が支配する「既存の社会システム」の正当性を問う姿勢である。つまり、今回のグレタさんの「気候のための学校ストライキ」に端を発する一連の世界規模の抗議活動は、いわば若者の反乱、昔の表現に倣えば「カウンターカルチャー」(対抗文化)の側面が少なからずあるということだ。

あの《ドグマ化された地球破滅論》を機軸とした《社会運動(らしきもの)》が「カウンターカルチャー」だったのか。この指摘には驚きと共に、ハッとさせられた。納得する。この視点は《秀逸だ》。グレタ・トゥーンベリ氏の《睨みつける視線》の意味が、この指摘でやっと理解できたと思った。《敵を視る眼差し》に感じられたのは、なるほどそうなのか、背負う文化が異なっていたのか。たんに《地球破滅ドグマを信じ、その認識枠組みの無謬性を疑うことのない視線》ならば、たしかに《大人なんかは皆敵に映るのかもしれない》、なぞと思っていたので、それを《カウンターカルチャー》と呼ばれると、「9月20日の世界一斉デモでは、日本を含む160カ国以上、約400万人が参加したといわれている」、あの一定の拡がりがあるとみえる《社会運動》の意味にも通底するものとみることができる。「約400万人が参加したといわれる」「世界一斉デモ」は《たんなる地球規模の環境問題の社会運動》ではなく、《新たな文化創造を胚胎した何か》だったのか。ここまでは、十全に納得しよう。だが、《胚胎した何か》とは何か。それが不明では理路は確保できまい。そのために、真鍋氏はある迂路を確保する。

社会学者の小熊英二は、1960年代の学生運動の背景について、「マスプロ教育の実情に幻滅し、アイデンティティ・クライシスや生のリアリティの欠落に悩み、自傷行為や摂食障害といった先進国型の『現代的不幸』」に直面しつつあった社会状況を指摘している。 [中略]  ここが最も重要なところなのだが、1960年代の学生運動を「ベビーブーム世代の『あるべき社会像』『あるべき大学像』というモラル・エコノミーを、当時の社会と大学が裏切っている、とみなしたことによる蜂起」と捉えていることだ。

真鍋氏の理路はさほどの唐突感がないように、「環境問題」では「レイチェル・カーソンが著した『沈黙の春』(1962)」を入れ込み、「公民権運動やベトナム反戦運動、女性解放運動など」を列挙しつつ、上記のようにわが国の「学生運動」、要は「1960年代」を挿入してくる。ここで要諦をなすのは、「モラル・エコノミー」である。真鍋氏によれば、「モラル・エコノミーとは、ざっくり言えば公共の福祉を優先する「道徳的な経済」のことである」。この点は確認を要するだろう。

 池田光穂氏には「モラル・エコノミー」の解説記事が用意されている。それによれば、「モラル・エコノミー(moral economy, 道徳経済)とは、経済的な行為や行動を支えている論理の中に人々 の道徳的なもの(倫理)がある場合、そのような原理で動く経済活動や実践のことをいう」。その直後に、「政治経済(political economy)と対峙して論争になった」とあるように、《経済活動への合理的な判断であるポリティカル・エコノミー》とは別の次元で機能する、その意味で云えば、《非合理で情緒的にみえる社会的諸活動の中に、殊に経済活動の只中に道徳的な原理が機能している場合があり、それをモラル・エコノミーと呼ぶ》ということであるらしい。正直に云って、真鍋氏の「公共の福祉を優先する「道徳的な経済」のことである」では何を語っているのかさえ不明である。さて、私たちの身近に、「道徳経済」は機能しているのか。例えば、《何らかの不足情報が流布された後に、〈適正価格を超えたと思われる価格設定〉に対する憤り》がモラル・エコノミーに起因するものであるかもしれない。だが、そうした場合に、少なくとも私は、《それを購入しない》という《合理的な選択》を行う。《購入しなければ生きていけない必需品ならば、どうする》という反論もあろうかと思うので、その場合は、むろん《購入する》、つまり《憤りつつ、その時点では、さほど在庫にならないような分量という合理的な判断を機能させつつ購入する》だろう。

 さて、「モラル・エコノミー」が機能するとして、どうなる。真鍋氏によれば、「おそらくこの場合の「あるべき社会像」とは、「危機的な状況にある地球環境に配慮した経済活動が行われる社会」となることから、「地球環境の持続可能性を無視した経済活動のすべて」が「背信行為」に映るわけである」。そして、《多くの神羅万象が敵認定をされ、睨みつけられる》というわけだが、これでは、せっかく「カウンターカルチャー」と認定した意義が霧散するのではないだろうか。少なくとも、「モラル・エコノミー」はかなり《土着的なもの》のはずだ。ここで《土着》とは、《普遍語に対するヴァナキュラー》という意味においてだが、それが「道徳」である以上は、どこまでいっても《文化的な拘束性から自由ではない》はずだ。たしかに日本にも市民社会が存立するだろう。だが、その歴史は浅い。日本的な風習が、それらの中には入り込んでいる。その中には、「モラル・エコノミー」的な要素も入っているだろう。それを雑に扱うことは、《理路の死》を意味しないだろうか。

 問題性はかなり明確になってきたかもしれないが、少々長くもあるので、本文の最後に真鍋氏の論考における最大の問題性を指摘しておきたいと思う。とはいえ、これは、安易に「モラル・エコノミー」論を提示した小熊英二氏にそのまま該当するかもしれないが……。そのために、先の引用で割愛した小熊氏の文章をみることにしたい。

「この時代の若者をおおっていた「閉塞感」「空虚感」「リアリティの欠如」は、それ以前の政治運動や労働運動、平和運動を支えていた、飢餓や貧困からの脱出、戦争の恐怖といったものとは、およそ異質なものだった。」

この言説がどういった文脈にあったのかが不明なのだが、小熊氏の『1968 若者たちの叛乱とその背景』(新曜社) からの引用とされているものである。ここからは、その文脈を完全に無視して語ってしまおう。「この時代の若者」とは誰のことか。これが最大の問題だろう。大学進学率が《10%後半~20%台》の時代の若者のことなのだろうか。それを前提にして、その《20%~30%あたりの学生が紛争に加担した》とみて大過ないとすれば、それを「この時代の若者」として語ることはできないだろう。これとまったく同じなのが、真鍋氏の言説である。《地球規模の環境問題》は喫緊の課題であることは確かだろう。それへの関心も多くの人びとに共有されている。だが、《大人を睨みつける敵意を露わにする若者》が多数派だとは思えない。これには、「日本を含む160カ国以上、約400万人」を含んでもよい。仮に《大人たちの所業に「背信行為」を読み解く》にしても、、そこには一定のグラデーションが存立しているはずだ。それが「モラル・エコノミー」の機能に起因するもののはずだろう。というわけで、グレタ・トゥーンベリ 氏に象徴される《〇〇運動》を「カウンターカルチャー」として観る視点に敬意を表しつつも、それが如何なるものであるのかを語るには未だ時期尚早だと云わなければならないだろう。最後に、真鍋氏の論考のサブタイトルは「社会の優先順位が崩れ分断招くおそれもある」であり、かれの論旨は《社会的な分断》が新たに生起する危惧に置かれている。そのこと自体に異和はない。

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November 29, 2019

《暴力の種別》は可能なのか?

 福島香織氏が『JBpress』に「中国化にはっきりノー!北京の裏をかいた香港市民」(2019.11.28)という記事を載せている。サブタイトルに「香港区議選が示した民意とどう向き合うか 」とあるように、《香港区議選以降》が適切に論究されている。とはいえ、かなりはしゃぎ気味な文体でレポートの域を超えている趣がある。丹念な取材に裏打ちされた矜持が前景化された記事ではあるが、他者への無用な言及は余計であるばかりか、自らの《品位の欠落》を感じさせる。

この5カ月の間、平和デモは、勇武派デモに変化していき、その暴力化が海外メディアの注目を集めた。11月には香港中文大学、香港理工大学を舞台に、まるでパルチザンのように自前の武器で警察の防暴隊と対峙するデモ隊の姿が大きく報じられた。[中略] 暴力に義はない、デモ隊は破壊活動を一旦やめて落ち着かねばならない、という論調が日本メディアや識者の間でも多くみられたように思う。警察が丸腰のデモ隊に実弾発砲しても、正当防衛論を言う識者は日本にもいた。警察の白色テロ化が問題であり、警察に対する独立した調査と浄化を先にしなくてはデモ側も暴力を止めることができない、と私がデモ隊側を擁護すると、SNS上では「暴力を煽っている」「テロを擁護している」と厳しい批判を受けることも多かった。(太字は張江)

なるほど、云わんとすること自体に異論はない。「警察の白色テロ化」そのものが問題なのだ。だが、「デモ側」の暴力には問題はないのだろうか。その点に触れる前に、確認しておかなければならない内容がある。

もちろん、デモ隊側の暴力のエスカレートが、多くの市民にとって多大なストレスであったことは間違いない。だが、だからといってほとんどの市民が、中国公安化した警察にデモの若者を取り締まってほしいと思っているわけでも、中国共産党の影響力によって香港の治安と秩序を回復してほしいと望んでいるわけでもない。それは香港の街できちんと取材していればわかることだ。香港市民のほとんどが、香港の司法の独立、民主的選挙の実現、報道・言論の自由といった西側的価値観のもとで運営される国際金融都市・香港の維持を望んでおり、香港の中国化に対しては断固ノーを突きつけている。(太字は張江)

私が冒頭部に、「丹念な取材に裏打ちされた矜持が前景化された記事ではあるが、他者への無用な言及は余計であるばかりか、自らの《品位の欠落》を感じさせる」と書いたのは、この箇所を指している。「きちんと取材していれば」、おそらく福島氏はこう言い切れるだけの自負があり、謂わば《取材もせずに、安全地帯で語る流儀への異和》が満ちて溢れ出すところだったのだ、と推察する。だが、《取材もせずに》あるいは「きちんと取材していればわかること」すら《理解できない程度の取材》でも、《語ること》は自由だ。それに《とやかく言うのは、謂わば〈楽屋をさらけ出す〉ようなもの》だろう。この一文は、不要なだけではなく、貴重な《きちんとした取材に裏打ちされた実感》に定位した記事を、たんなる《現場主義》に堕させてしまっていると思わざるを得ない。
 さて、論点を戻そう。「警察の白色テロ化」にこそ問題の端緒がある。《警察が市民警察である限り》、この了解に対する異論はない。しかし、それが先行的に「浄化」されるのでなければ《デモ側の暴力》を「止めること」はできない、という言説はほんとうに妥当なのだろうか。ここには《下図的にはたらいている了解》が成立してあるのではあるまいか。それが《邪悪な暴力=警察の白色テロ化》と《聖なる暴力=デモ側の暴力》という図式である。しかし、如何なる「義」が《在る》にせよ、《そこで振るわれる暴力》に差異はない。《暴力はただ暴力である》。戦場では《弾は前から飛んでくる》だけではなく、《後ろからも飛んでくる》。《味方の弾でも、むろん人は死ぬ》。これが《暴力》の本質的な在り様ではないのだろうか。福島氏が書いているように、「理工大学では警察の装甲車に対し、デモ隊が火炎瓶で応戦して装甲車を炎上させるような場面もあった」。火炎瓶で人を殺すこともできる。そんなことなら、1971年の《渋谷暴動》を想起するまでもない。だから、福島氏は先の文に急いで「(運転手の警官は無事)」と附記したのではあるまいか。繰り返しになるが、《暴力はただ暴力である》。たしかに、「警察の白色テロ化」が発端であるならば、その「浄化」こそが優先されなければならないだろう。それが理路の必然だろう。だが、それで《デモ側の暴力》が《暴力でなくなる》わけではない。そうであれば、そこに《聖性》を視る必要などまったくはない。「警察の白色テロ化」を指弾し、その「浄化」を訴えつつ、同時に、「デモ側の暴力」を抑える要望を提示することが問われていると思うのだが如何だろうか。善意であるにせよ、香港の《若い躍動》を煽ってはならない、と同時に、《若い躍動》には《生き永らえること》、そしていずれは成熟する可能性のあることを知らしめる途があると思うのだが……。

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November 28, 2019

「中国はウイグル自治区に国連監視団受け入れよ」!

 「IRONNA」の「最新記事一覧」に「「中国はウイグル自治区に国連監視団受け入れよ」 英が要求」が「BBCニュース」として掲載されている。我が国の現況を鑑み、少しうらやましくなる。

イギリス政府は25日、中国西部の新疆ウイグル自治区に、国連監視団が「即時かつ無制限にアクセス」できるよう、中国政府に求めた。/この要求は、中国の公文書が流出し、何十万人ものイスラム教徒のウイグル人が、新疆ウイグル自治区の収容施設で虐待されている状況が判明したのを受けたもの。/英外務省の報道官は、「新疆における人権状況と、中国政府の弾圧強化を深く憂慮している。とくに、100万人以上のイスラム教徒のウイグル人や他の少数民族の人々を、法にのっとらずに拘束していることを懸念している」と表明。/「イギリスは中国に対して引き続き、国連監視団が即時かつ無制限に新疆ウイグル自治区にアクセスできるよう求めていく」と述べた。

中国が「フェイクニュース」として扱い、「中国の劉暁明・駐英大使」が「こうした報道はでっち上げだ」と云うのであれば、「新疆ウイグル自治区に、国連監視団が「即時かつ無制限にアクセス」できるよう」にするのは当然のことだろう。《疑われた》のであれば、その《疑いを晴らす》。国連常任理事国であっても、それをはねのける権能はあるまい。「国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)」が「「中国電報(The China Cables)」と呼んでいる流出文書には、2017年に新疆ウイグル自治区の共産党副書記で治安当局のトップだった朱海侖氏が、収容施設の責任者らに宛てた9ページの連絡文書も含まれている」という。「その連絡文書では、収容施設を高度に警備された刑務所として運営するよう指示」があるとされる。自明なことではあるが、《職業訓練所は刑務所ではない》。

国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの中国担当責任者ソフィー・リチャードソン氏は、流出文書は検察当局に活用されるべきだと話す。/「これは訴追に使える証拠で、甚だしい人権侵害が記録されている。収容者は全員、少なくとも精神的拷問を受けていると言っていいと思う。自分がいつまでそこにいるのか、まったく分からないからだ」。

少なくとも《刑務所であれば、刑期がいつ終わるのか》が明らかだ。《無期懲役》の場合があるにせよ、少なくとも《圧倒的多数には刑期がある》。それが不明な状態を「精神的拷問」と呼ぶのは、至極真っ当な判断である。

中国の劉暁明・駐英大使は、中国の施策は新疆ウイグル自治区の人々を守るためであり、同自治区では過去3年間、テロ攻撃は1件も起きていないと述べた。

それはそうだろう。《監視と収容の徹底》は《異和を表明する機会》すら与えない。それ故、「テロ攻撃」と称される《抗議行動》は「1件」たりとも生じない。だが、そうした現況は、ウイグル人を「守る」ことと決して同義ではないだろう。《自らの人生・文化・家族、そしてコミュニティの未来を決定するのは、他の誰でもない自らの意志である》、むろん、その結果が自らの想定と異なっていたとしても、その責任を引き受けるのもまた、《自らである》。この単純かつ自明な定理すら蔑ろにされている《ウイグルに晄あれ!》と祈ることしかできないのだろうか。  ちなみに、ジョシュア・キーティング氏が『ニューズウィーク日本語』に「中国は「ウイグル人絶滅計画」やり放題。なぜ誰も止めないのか?」(11/19/2019:翻訳:森美歩)という記事を掲載している。それは、「China Shows How Easy It Is to Get Away With Ethnic Cleansing 」とかなりシニカルだが、その記事の最後は現況を端的に映し出しているのかもしれない。曰く「今回のニューヨークタイムズの報道は、新彊ウイグル自治区で起こっていることに対する懸念を改めて掻き立てるものとなるかもしれない。だがそれが中国に「再教育」をやめさせるほどの圧力になることはないだろう」。

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November 25, 2019

島嶼国ツバルを知る。

 長谷川良氏が『アゴラ』に「南太平洋の島ツバルをエピソード中国から守れ:台湾との関係を毅然と維持」という記事を掲載されている。かれは「ウィーン居住のジャーナリスト」ということで、実際、ウィーンからの記事にはじつに興味深いものが多い。今回は、「南太平洋の島ツバル」という、私のまったく知らない地名がタイトルに入っていることもあり、紹介することにした。

バチカンに次いで人口が少ない国家、南太平洋のエリス諸島の島国ツバルという国名を初めて聞いた。オーストリア国営放送の公式サイトに22日、「ツバルが中国の人工島建築計画を拒否した」という見出しの記事が掲載されていたからだ。

国際的に活躍されているジャーナリストが「初めて聞いた」のだから《私が知らなくても恥にはなるまい》と自己正当化を紛れ込ませつつ、しかし、ツバルについて知るよい機会となった。ウィキペディアには「ツバル」の項目が既存していて、そこには「ツバルは、オセアニアにある国家。南太平洋のエリス諸島に位置する島国である。首都はフナフティ。イギリス連邦加盟国のひとつ」とあり、「正式名称はツバル語でTuvalu。公式の英語表記も同じ。日本語の表記は、ツバル。ほかに、ツヴァル、トゥバルなどもある。現地語でtuは「立ち上がる」、valuは「8」の意味である。これは、伝統的にツバルで人が住んでいた島が8つだったことに由来する(1949年以降は9つすべての島に人が住んでいる)」と解説されている。《便利ではあるが、これでは直ぐに忘れる、そしてまた調べる、だが調べたというエピソード記憶だけが残る》という妙な循環だけが成立するとの思いも強く、あえて《書くこと》にしたのだが、どこかの宰相が《完全に正常な軌道に戻った》などと云うのとはまったく異なり、気骨を感じさせる対応に驚く。なお、『ニューズウィーク日本語版』の「11/22」にも「南洋の小国ツバル、中国に反旗 中華企業の人工島建設を拒絶、親台湾姿勢を堅持」が掲載されている。

ツバルのコフェ外相は21日、中国企業から提案された海面上昇に対処するための人工島建設計画を拒絶したと明らかにした。/中国はこうした申し出を通じて、ツバルなど台湾と外交関係のある太平洋の島国を取り込もうとしているが、コフェ氏は台湾支持の姿勢を鮮明に打ち出し、同様になお台湾と外交関係を維持しているマーシャル諸島、パラオ、ナウルの3カ国との連携を強化していく方針を打ち出した。

ちなみに、「ロイター通信」の「ツバルが中国企業の人工島建設提案を拒絶、親台湾姿勢を堅持」が元の情報源のようだが、『新聞』各紙にも載ったのだろうか。いずれにせよ、長谷川氏と同様に、「超大国・中国のオファーを毅然とした姿勢で拒絶する超小国ツバルの主張に当方は感動すら覚えた」。こうした「勇気がいる」対応には、《称賛を送る》だけではなく、何らかの《超大国によるハラスメントへの対策・支援》も必要不可欠なのだと思う。なお、「ツバル」を調べていて、またもや《驚かされる》興味深い「記事:「沈みゆく島国」ツバル、実は国土が拡大していた 研究」(2/10/2018)をみつけた。

気候変動に伴う海面上昇によって消滅すると考えられてきた太平洋の島しょ国ツバルは、実は国土面積が拡大していたとする研究論文が9日、英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズ(Nature Communications)に発表された。

詳しくはこの記事を読んでいただきたいが、概略としては妥当な認識が《自明な認識枠組みとして存立すること》で、結果的にある種の《イデオロギーとして作用することの典型例》をみせられている思いだ。要は、こうした所業のすべてが《知的怠惰だ》ということは肝に銘じておかなければならないだろう。

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November 21, 2019

福島香織「すっぱ抜かれた悪行、新疆と香港を踏みにじる中国」を読む。

 福島香織氏による「すっぱ抜かれた悪行、新疆と香港を踏みにじる中国」(2019.11.21) が『JBPress』に掲載されている。そのサブタイトルは「NYTが内部文書をスクープ、徹底的な新疆弾圧を指示した習近平」である。要は、NYTの例のスクープを巡る記事である。福島氏によれば、「ニューヨーク・タイムズが、中国・新疆ウイグル自治区に関する内部文書24件403ページをすっぱ抜いたスクープは、これが本物なら、天安門事件の真相に迫った張良が持ち出した天安門文書に匹敵するジャーナリズムの快挙と言えるかもしれない。/「これが本物なら」とあえて言うのは、今のところ新疆ウイグル自治区当局および中国サイドは、この文書が捏造文書であると主張しているからだ。その可能性はゼロではない」のだという。だが、「私はこの内部文書を全文読んだわけではないが、一部公開されているものを読む限りでは、本物ではないか、と見ている」という。その理由は、「「ラジオ・フリー・アジア」(米国の政府系ラジオ放送局)などの在米ウイグル人記者たちが共産党関係筋に取材して報道した内容と符合するし、私自身が体制内学者たちに聞いた習近平の新疆政策の背景なども、こうした新疆文書の内容と一致している」からだ。なるほど、説得力のある類推である。記事としては《長文》だと思えるが、具体具体例を確認したいと思う。

 「文書の中では、現場の鎮圧を示す言葉や命令形表現が使われており、強制的な弾圧命令として現場官僚に通達されている」という。ここでの例示は、以前の記事「ウイグルへの注視を!」でも例示として提示されたものだが、より詳しく、そのなま生さをみてきたい。

「例えば、ウイグル人留学生が夏休みに新疆の実家に帰ってきたとき、家に父母がおらず親戚も失踪、隣人たちも姿がない。みんな強制収容されていて、学生が当局の官僚に「家族はどこにいますか」と問い合わせてきたとする。そのとき、どう答えるべきか? といった模範解答も指示されている。「彼らは政府が建てた研修学校にいる」と答えるのが模範解答例だ。もし学生がさらに説明を求めたら「彼らは罪を犯したのではないが、学校から離れることはできない」と答える。さらに「もしもあなたが彼らを支持するのならば、それは彼らのためにも、あなたのためにも良いことだ」という言い方で、学生の答え方次第で家族の拘禁時間が短くなったり延長したりすることを伝えるよう指示されている。つまり恫喝だ」。

この妙に、通常の感受性では《納得することのできない「模範解答」》にこそ、《全体主義が醸し出すリアリティ》がありそうだ。「もしもあなたが彼らを支持するのならば、それは彼らのためにも、あなたのためにも良いことだ」。この《(通常では)会話にはならない「模範解答」》も、《いつかどこかで読んだ言い回し》に思えてくる。普通ならば慣用的に云って《いつかどこかで聞いた台詞》となるのだろうが、幸いにも《私の個人史において、こんな台詞は一度も耳にすることはなかった》。だが、《読んだ覚えはある》。

「このスクープは、共産党が現在行っている新疆政策がけっして、国際社会に対し説明しているようなウイグル人の再就職支援といった「善意」の目的ではなく、また建前で謳う多民族国家や人類運命共同体といった理想とは程遠い、「専制」による民族・宗教・イデオロギー弾圧であり、支配管理強化であることの明確な証拠となるものと言えるだろう。今、新疆で起きている問題は、間違いなく人道の問題なのだということを証明する内部資料という意味で、このスクープの意義と影響は大きい」。

ここで、福島氏への一つだけの不満を語ろうか。「建前で謳う多民族国家や人類運命共同体といった理想とは程遠い、「専制」による民族・宗教・イデオロギー弾圧であり、支配管理強化であること」、この指摘に基本的には首肯しよう。だが、何故、「専制」に括弧が附されているのだろうか。その文章の直前にある「善意」に括弧が附されるのは、じつによく理解できる。だが、「専制」はそのままの事態の描写ではないのだろうか。そうでないとしたら、他にどのような描写が妥当なのだろうか。新疆で展開されいるのは、《Cultural Genocide》であり、それは水谷尚子氏が語った「ウイグル民族の文化が地上から消される」に他ならない事態であるだろう。専制に括弧はいらない。

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