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February 26, 2007

円楽さんの引退

 三遊亭円楽師匠が引退を表明したという。
 お疲れさまでした。
 月並みだが、このことばをお贈りしたい。
 だが、同時に、少し触れておかなければならないことがあるように感じる。

http://newsflash.nifty.com/search?func=2&article_id=tt__nikkan_p-et-tp0-070226-0014&csvname=293336563

 軽度とはいえ脳梗塞で倒れたのだから、その「後遺症」と、かれのプライドや「芸の設定水準」を考えれば、これはもっとも妥当な「幕引き」なのかもしれない。
 それはそうおもうのだ。
 ただ、別の可能性はないのだろうか、そんな印象が拭えない。
 かれの場合は「病気の後遺症」というわけだから、むろん今回の対応にはそれなりの説得力はある。だが、これを加齢に伴う出来事として一元的に還元して捉えることはできないのだろうか。
 そもそも、これから書く問題設定がまちがっているのかもしれないのだが、加齢に伴い、それぞれに「病気」は抱え込まざるをえないようにおもうのだ。むろん、「健康体のままに年を取ること」が不可能だとはおもわない。だが、蓋然的にみれば、加齢と「体調不良や何らかの病状の増加」は正の相関があるのではないかとおもう。
 もしもそうであれば、「ろれつのまわらない」噺家が、高座という市場にあがったってよいようにおもうのだ。
 かれが「商品」であるならば、その価値は聴衆という顧客が判断すればよい。
 この単純な構図に自ら身を置くことは、まちがいなくつらいにちがいない。それが、高い水準を目指し、維持してきた方であれば、なおのことそうだろう。
 だが、「ろれつのまわらない噺家」が即つまらないと決まっているわけではなだろう。要は如何に「ろれつがまわらないか」、その「まわらなさ加減」に快楽が生じないとも限らないからである。
 それは、たしかに人生の大半で生き生きと機能させてきた「芸の設定」とは異なるだろう。それゆえ、同一の基準においては、こうした設定自体が「恥ずかしい」ことにちがいない。
 だが、別の基準の可能性は一考にすら価しないのだろうか。
 私には、そうはおもえない。
 とはいえ、こうした「提案」はたんなる可能態においてにすぎない。「現実的には」、そんな隘路に赴くことは難しい。それもよくよく解ってはいるのだが、やはり、「老害」とは徹底して異なる仕方で、ある種の「未踏の地」への扉を開ける可能性は、――それまで生きてきた、その延長という意味で、日常にある「そこ」にあるように感じられてならない。

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