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March 30, 2007

岸恭博くんの1周忌に

 大学時代の友人である故岸恭博jくんが他界して1年が経つ。かれは長く居住していたつくば市で亡くなられた。
 かれのことを強烈な個性と呼んでよいのだとおもう。一言で描写すれば、「奇人や変人の類」ということになるのかもしれないが、かれは、いつも、どこか肝心の箇所が抜けているのだが、それでも、やはり徹底して近代人であったし、同時に、謂わば野人でもあった。
 哲学を深く愛し、あまりにも酒を愛し、熱き討議を愛した男だった。
 かれと一定の親交を持った人ならば誰も、大なり小なり、その「痕跡」をそれなりに抱えているのだとおもう。
 おそらくは、それですべては終えているのだとおもいつつも、他方で、「岸くんがいたということ」をどこかに確実に残しておきたいと念じてもいる。
 その意味でいうと、「個人」を基体とする問題設定というのは、じつに厄介なものだ。
 しかし、かれについて書こうとすると、結局は青年期からのたわいもないエピソードを連綿と書くことでしかなく、しかも、その記述に用いることばに、不可避的に「心的な肉」のようなものを附随させてしまう。
 それは仕方のないことなのだとおもいつつも、だが、やはりそれには少し耐えられそうにもない。
 どのように想い描こうとも、やはり両義的あるいは多義的にしか生きていないのにもかかわらず、どうも私は、こうした両義的な心性に長くい続けることにあまりにも慣れていないのかもしれない。

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March 29, 2007

風のがっこう稚内 プロジェクト

 私の本務校の同僚であり、またじつに多くの意味合いにおいて愛すべき友人でもあるsasakiさんが中心となって「風のがっこう稚内」の設立・運営に向けたプロジェクトが続けられている。
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 その経緯などは「風のがっこう稚内」および「『風のがっこう稚内』を応援するプロジェクト」に詳しい。
 この夏にセンターとなる施設を建設する予定で、しかも、それがログハウスだという。「風のがっこう稚内」のブログ記事(2月1日付)に次のようにある。

風のがっこう稚内の目的は「がっこう」の建物を作ることではなく、「何をするのか」というソフトを充実することです。しかし、拠点となるログハウスを建てたいと思っていたら丸太をタダで提供してくれる人が現れました。タダで土地を貸してくれる人も現れました。ベテランのログビルダーもみつかりました。これはもう「ログハウスを建てなさい」という天の啓示としか思えません。
 ということで、ログビルダーさんがイメージを膨らますために模型を作ってくれました。これでさらに夢が広がりました。http://d.hatena.ne.jp/kaze_no_gakkou/20070201

 おそらくはsasakiさんのお人柄によるのだろうが、このプロジェクトにはさしてファナティックな感触がないところがよい。決して謙遜でもなく、少しの自負心を脇に置いてみつめてみれば、私など所詮は些細なことしかできないのだが、それでもどこかで応援もしたくなる。
 じつは、かつての「反核」でもそうだったのだが、現在の「環境問題」には、どこかで、これ以上にはないといった準位の「目標」なり「危機」なりを設定しておいて、そこから謂わば演繹的に諸要請が繰り出されてくる、そんな仕掛けになっているように感じられてならない。それは、、おそらくは、そこで成立する心性にあっても、また理路としても、そうだといってよいだろう。
 だから、こういった論理構成であれば、その「内部」にあっては異論も反論も出しづらい。
 それはそうなのだ。「究極の危機」が設定されているのであれば、その「外部」は想定外、あるいはその存在自体がそもそも不能であり、それが現存するのであれば、それには、ある事態しか考えられない、ということになる。
 こうして、またもや「啓蒙」だけが有意義となる。
 むろん、環境問題への対応は、今でも遅すぎると、私もおもう。だが、「それとこれ」とは別問題だろう。
 そんな意味からも、どこか楽しげな「風のがっこう稚内」プロジェクトの充実を念じてやまない。
 

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March 28, 2007

大谷栄一『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』

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 私の若き友人の一人、大谷栄一氏より『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』(課題番号17720012 平成17~18年度科研費補助金 若手研究B)をご恵贈いただいた。
 記して謝意を表しておきたい。
 じつは、かれからは昨年末に上梓された『現代と仏教』(末木文美士編 佼成出版社 2006)もお贈りいただき、まだ、そのお礼もきちんとはできないままでいる。このままでは申し開きのしようもないので、ここで、雑で申し訳ないが、少し読後感なりを書いておきたい。
 かれはそこで「公共宗教としての仏教?(国家)」を執筆されている。戦前の「日蓮主義運動」を鳥瞰しつつ、仏教の「市民宗教」としての可能性について論じ、「市民仏教」という述語化もされている。かれの呈示する理路に基本的に異論はない。ただ、そのタイトルにある「公共宗教」という言辞を拝見したときに、これも自明なことではあるのだが、「宗教」にわざわざ「公共」を冠化しなければならないほどに、それが徹底して世俗化されているという認識に、少し切ない感傷めいた気分になったことを附言しておきたい。
 さて、今回いただいた「報告書」の中心は妹尾義郎研究にある。そのなかの論文「近代仏教運動の政治参加の分析――大日本日蓮主義青年団と新興仏教青年同盟の事例」を拝読――本来ならばこう書くべきなのだが、実情を正直に書くと、簡単に斜め読みさせていただいた。
 丹念な史料の「掘り起こし」からなり、なるほど「実証的研究」と呼ぶに相応しい。そのご苦労に頭が下がる。1点、少し気になったのは「結成当初から、新興仏青は仏教革新運動なのか、社会運動あるいは政治運動なのかが、同盟員たちの間で問題となった」という指摘に関わる了解である。大谷氏は謂わば「内在的視点」へと、つまり、当事者の意味づけへと強く方向性を指示されている。むろん、この視点そのものに異論も反論もない。だから、大谷氏がこうした「新興仏青」のメンバーたちが問題とした論点を呈示するのはよく判る。
 だが、明らかに門外漢であり、もしかするとずいぶんと「外在的に」みているかもしれない私からすると、妹尾義郎あるいは、この団体(新興仏青)の方向性は、まさしく「宗教」にわざわざ「公共」を冠する必要のない時代性にあって、そこで活きいきと大衆的に機能していたものとして構想された宗教――かれらの場合は、日蓮上人の教義思想とその社会的な存立様態への帰還を切実に熱望する、1つの「原理主義(運動)」にみえる。
 こうした視点は方法論的に相容れないのだろうか。だが、私の理解できた範囲では、「宗教」と「政治」との<あいだ>に位置する妹尾義郎ではなく、むしろ「宗教者」でしかない、だが「原理主義者」としての妹尾義郎のほうがはるかに腑に落ちるのだ。
 さらにいえば、妹尾義郎らを「原理主義者」として捉えることで、少なくとも妹尾が歩んだとされる「赤色化」の意味合いもより鮮明にみえてくるのではないか、そんな雑駁な印象をもった。 

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March 24, 2007

専門知とメリトクラシー

 sumita氏の「専門知への不信」、それともただの無関心?」に触発され、少し「専門知」と「日常知」との関連について触れてみたいとおもう。

専門知への不信」が存在するというのは別に悪いことではなく、とても健全なことだ。日常生活者から見れば、何であれ「専門知」は奇異なものだからだ。そこで批判とか突っ込みが行われる。これは哲学的思惟や歴史学的遡行へと深化される可能性がある。

 あいかわらず適切な指摘内容と手際の良い提示の仕方だとおもおう。
 ただ、「専門知」と「日常知」との関連を主題化するならば、どうしても触れておかなければならない問題群があるとおもう。
 それが「メリトクラシーmeritocracy」だろう。
 むろん、こうした「社会編成原理」を問題にすることで、「知」の等高線という社会的な「知の分配地図」がみえにくくなるという、新たな問題性も浮上することになる。だから、あえてこのモメントを視野に入れず=脇に置き、「知の等高線」という準位に問題を還元するという手法も妥当ではある。
 だが、「専門知」への両義的な態度形成を主題化するのであれば、やはり、「大衆化したメリトクラシー」は必須の要素にちがいない。

「不信」というよりも、「専門知」は自らの生の状況にはレリヴァンスを持たないものとして関心から外されているということになる。「不信」があるとすれば、具体と抽象の間を往ったり来たりするという振る舞いそれ自体に対してなのではないか。かくして、「専門知」は無傷のまま外部から切り離されて、内輪では業績とやらが生産され続ける。また、「専門知」と日常生活の間に横たわる空隙は(一見すると哲学っぽい)人生論やら疑似科学が埋め立てるということになる。

 2つの引用を対比的に捉え、一種の備忘録のつもりでメモを記しておきたい。
 第1の引用にみられるのは、「日常知」が基盤機能として、換言すれば、妥当性の基準として機能することをよく示している。この側面には充分に留意する必要がある。
 だが、問題は第2の引用に現れている「知の往還」への忌避感である。むろん、それを「無関心」といってもよい。だが、それは同時に、「専門知」への両義的な態度の端的な表明でもあるはずだ。
 このときに、そこで機能しているのは「原理として大衆化した」、それゆえ、自らも一応は「納得している」はずのメリトクラシー自体への両義的な態度であるようにおもえてならない。
 もしもそうであれば、論点は、やはりメリトクラシーをめぐって考察されなければならないのではあるまいか。
 これらの問題系に関しては、拙稿(「大衆教育社会と〈自己実現の物語〉」)を前提にしつつ、要は、その先を考えなければならないのだとおもう。

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March 23, 2007

頂き物

 ずいぶんとご無沙汰しているが、中国哲学の研究者である、友人の中島隆博氏よりご著書をご恵贈いただいた。記して謝意を表しておこう。
 かれとは、もうずいぶんとお会いしていないが、高水準のお仕事を維持されているようだ。相変わらず、すごい、と感じ入る。
 じつは、今回の場合は、かれを Takahiro Nakajima と表記すべきかもしれない。
 というのも、ご著書のタイトルは"The Chinese Turn in Philosophy"、全編が欧語、より詳しく書くと、第1章から第9章(除く第3章)までが英語、第10+11章が独語、第3章と最終章である第12章が仏語で執筆されている。
 表紙は、敦煌の莫高窟の壁画「涙を流す人々」が中心に配されている。とても落ち着きのある装丁だ。
 Sponsored and published by UTCP(The University of Tokyo Center for Philosophy)とある。UTCP叢書とでも捉えておけばよいのだろうが、「Collection UTCP 3」として出版されている。
 それにしてもUTCPが「共生のための国際哲学交流センター」になるにか、私にはよく判らないままだ。
 とりあえず、以下で簡単に目次を紹介しておこう。
 どこかで時間を取ってきちんと拝読することにしたいが、仏語はからきしだし、どうなるだろうか。

 ⅠDeconstructing Chinese Philosophy
1. Don't Mix! Can Be Dangerous:De Anima in China
2. From Foundation to Difference:On the Conception of the exteriority and the interiority
3. Pour en finir avec ce désir récurrent de TONG統

 ⅡGenealogy of Modern Philosophy in East Asia
4. Pragmatism and Modern Chinese Philosophy: The "genetic method" of John Dewey and Hu Shi
5. Historical Consciousness in Hu Shi and Mruyama Masao
6. Trace of Legitimacy and Justice in Maruyama Masao

 Ⅲ Flickering Shadows of China in Japanese Modernity
7. Genealogy of Nothingness:Nishida Kitaro and China
8. Buddhist Discourses on Contemporary Bioethical Problematics in Japan
9. Like Tongueless Men:Silence at Fushun Coalmine

 Ⅳ The Moments of Tears:Reflecting European Philosophy
10. Der Moment des Tränenvergiessens:Gedanken mit Jacques Derrida zur transzendentalen Ökonomie der Zeit
11. Lexikon zur Zeittheorie Derridas
12. Relire Fonder la morale de François Jullien et redécouvrir une pensée chinoise plurielle


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March 22, 2007

鶴田浩二と想像の共同体

 鈴木ヒロミツ氏が他界した。
 少し遅い追悼の意の表明ではあるが、謹んでご冥福をお祈りする。
 昨春に故アイ高野氏の訃報にも切ない思いをした。
 おそらくは、そろそろ「私の世代」にも死がリアリティを帯びてきたということなのだろう。
 そして、今回の訃報もまた、「世代」という概念がやはり「幻想の共同体」であると再確認する契機となった。
 これに関して想いだされるのは、かなり遡るのだが、じつは、かつて鶴田浩二氏の訃報にさいして母が涙するところに居合わせたことである。
 これにはとても驚いた。1980年代後半のことだったと記憶している。
 母は決して「堅物」ではない。とはいえ、かのじょが「映画スター」の死に涙するともおもってはいなかった。それに、かのじょが鶴田浩二に特別な思いを寄せていたとは露ほども知らなかった。むろん、かのじょは、常日頃、そんな素振りは微塵もみせなかった。
 概していえば、こどもが成長するということは自身の父や母が「私の父や母」であるだけでなく、それぞれに固有の人生を歩んでいることを理解することでもあるだろう。
 かつて「母に固有の名前があることに驚く」と設定の「児童書」も読んだ記憶がある。主人公は「もも」とかいっただろうか。
 たしかに、子どもの成長過程とは、そうした「いま・ここ」からの超出過程あるいは理念化によって構成される世界への参入として描けるとおもう。
 その意味でいえば、「母と鶴田浩二」という連合に驚嘆する息子というのは、まだまだ成長過程にあったということだけなのかもしれない。
 だが、別様にみれば、そこにみられるのは、明らかな「同時代人意識」や「同世代意識」である。
 一定の年齢タイルは成立するとはいえ、そこにあるのは、マスメディアによってつながった「同時代という幻想の共同体」だろう。だから、メディアのなかの人物の「実年齢」が問題なのではない。
 要は、そのとき(私が中学生のとき)、かれは「朝まで待てない」を唄っていたこと、これが最大の要点だろう。
 だから、かのじょにとっては、私の知る「人生劇場」も「博徒シリーズ」もさしたる要件ではなく、おそらくは「青春三羽烏」として、かれの訃報を聞いたのだろう。
 そんなことを、鈴木ヒロミツ氏の訃報にさいして想いだした。
  
 謹んで、ヒロミツ氏のご冥福をお祈りする。

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March 20, 2007

地平分析の遂行

 旧知である樫田美雄氏より「科研費の研究成果報告書」『医学教育のエスノメソドロジー』及び「児童虐待のつくられかた」、「Examining Examinations:on logic of practices in OSCE」(どちらも共著『徳島大学 社会科学研究』20)をご恵贈いただいた。記して謝意を表したい。
 早速、そのなかで比較的読み易そうな印象を持った「児童虐待のつくられかた」を拝読する。
 このご論考は、その副題にあるように「D. スミス「Kは精神病だ」の分析方法を基軸として」、石田文三「児童虐待防止法制定の意義と課題」(『人権と部落問題』2(727)部落問題研究所、2005:6-14)の言説分析を行ったものだ。石田論文を取り上げた「最大の理由は、事例の中に<虐待>という言葉が一度も登場しないからである」という。
 つまり、このご論考は「<虐待>という明示的な言葉を使用せずにこの事例を<児童虐待事例>として,あるいは母親の行動を<虐待>として,読み手が解釈してしまう仕組みを明らかに」することに焦点を据える。
 正直にいうと、樫田氏にしては分析の手さばきがさほど手際のよいものにはなっていないが、これは共著である故ではないかと推察する。たとえば、「中立性レトリック」「防止可能レトリック」などの論述過程にはややこなれていないというか、スキムの先行性を疑わせる感触も残るものの、その理路には総体として「なるほど」と納得した。
 そもそもガーフィンケルの「違背実験 breaching experiment」もそうなのだが、今回の言説分析も、基本的にはひろく「地平分析」であるといってよいだろう。そして、この視線においては、現象学による多くの知的寄与もまだまだ可能だとおもう。どのように接合していくのか、それが大きな課題なのかもしれない。
 いずれにせよ、このご論考によって、かつて井出裕久氏が「過労死問題」において「愛情」と「仕事の信憑」とを接合されて論じられたように(「過労死と〈仕事〉の信憑」『大正大学研究論叢』7、1999:19-38)、「児童虐待」にあっても、場合によっては、そうした側面のあることを知った。換言すれば、それは、私たちがややもするとカテゴリー化の罠に陥る可能性でもある。つまり、例えば「ニート」が上野千鶴子がいうように「残余カテゴリー」であるように、「児童虐待」というカテゴリーもまたそれと同等、あるいは少なくとも近似しているということである。
 この点はきんとと考えなければならないだろう。
 

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March 15, 2007

高度経済成長期という画期

 数年前から、高度経済成長期を現在の日本社会の日常生活の世界に存立する基本的な諸制度を形成する決定的な画期として捉えるためのプロジェクトをすすめている。だが、なかなか具体的なかたちにできないままでいる。
 そうした「苦戦」のなかの1つの成果が、若き友人である浜島幸司氏との共著「大衆教育社会と〈自己実現の物語〉 」(『稚内北星学園大学紀要』第6号:75-93.)である。
 関心をもたれた方は、ネットでも読むことができるので、ご覧いただければ幸甚である。→こちら
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 こうした議論の設定は妥当なものとおもえるのだが、同時に、ややもすると「床屋政談」に堕する可能性もある。拙稿はどうだろうか。
 そうした点では、昨年末に上梓された『都市の暮らしの民俗学3』は、同様の視点において、じつに適切に現実を再構成している作品だとおもう。
  そこに「出産の戦後史」をお書きになっている大出春江氏よりご恵贈いただいたものだが、改めて謝意を表明しておきたい。また、同種のテーマを扱った「出産の正常と異常をめぐるポリティックスと胎児の生命観」(『年報社会科学基礎論研究』4)は、秀逸な作品だとおもう。抄録だが「立ち読み用」として、これもネットで読むこともできる。→こちら
 ところで、本書を拝読した感想として、そこで想定されている読者対象が「研究者」に限定されていないであろうから、その点では「ないものねだり」の感は否めないのかもしれないが、全体的に、つまりどの論考も記述がやや平坦な印象は拭えない。
 とはいえ、こうした地道な作業の積み重ねの先に、より大きな成果が待ち受けているのも、また確かなことだろう。
 その意味でも、改めて、さまざまな「素材」を吟味し、再考の契機をいただけたと感じる。
 

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March 12, 2007

卒業式と想像の共同体

 昨日、ある中学校の卒業式に臨席する機会を得た。
 現在、都市部ではどうなのだろうか、よく判らないが、昨日のものは、どこか懐かしい、私自身も経験してきたものから大きく逸れることのない、その意味でいえば、一定の「形式」に則ったものだった。
 子ども時代から「卒業式で泣く」という心性は、共振するという要素が皆無だという意味において、まったく理解できないままだが、それも多く観られ、その点でも「普通の卒業式」だったのだとおもう。
 感じ入ったのは、別段に「新しい発見」というわけではないのだが、「卒業」を「春」と連結させる意味論的な水準における語彙およびその連合の頻出ぶりだった。
 さすがに、内地のままの常套句をそのまま用いるのは「不適切だ」とおもうのだろう、「まだ雪があるとはいえ……」とか「雪を押しのけて……」とか、何とか「現実」とのギャップを埋める工夫は随所にみられる。これには老若の区別はない。まぁ、諸先生方による「ご指導」という要素は考えなければならないが、在校生や卒業生の言説内容から推察すると、それも比較的少ないといってよいようにおもえる。何しろ、個人的な、つまり、友人関係に還元可能な固有名が複数登場する「答辞」であったのだから。その意味でいえば、それは「ユニーク」なものである。
 だが、いずれにせよ、そこで語られた諸言説の基本は「今は春だ」という、揺るぎのない確信で共通する。
 私も北海道に移住してずいぶんと経つので、例えば「マイナス3度」で「春」を感じる経験もした。つまり、この気温で「暖かさに向かう変化」を実感したこともある。そのときは、自らに「不覚にも……」と叱責しつつも、それは意図性ではどうにもならず、ただただおどろきではあった。
 しかし、昨日の卒業式で語られていたのは、そうした「生活上の実感」ではない。
 そこでは、「春」は「芽吹く季節」として、換言すれば、「(生命の)躍動」の予兆として、それゆえ、「未来という、つまり〈これから〉という未定の開かれた時間に向かう期待を込められた」メタファーとして使用されている。むろん、それは、たんに制度化された言辞あるいはその連合であって、じつにありふれたものにすぎない。
 だが、それはまさしく、「和人」という「農耕民」の文化をマジョリティとして形成された「想像の共同体」を直線的に指示している。
 そんなわけで、「人間って、観念のなかで生きているなぁ」という、謂わば自明的な事態を改めて痛感する経験となった。

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March 09, 2007

「文字の文化」考

 周藤真也氏の「文字の文化は声の文化を超え出るのか」(『社会学ジャーナル』28 筑波大学研究室 2003;125-139)を読了して数日が経つが、じつは読後感の焦点が上手く定められないでいる。
 題名はオングへの論拠を印象づけるが、内容はそれに直接的に対応したものではない。とはいえ、じっさい、そこで周藤氏はオングに言及もし、論拠もする。
 その理路は次のようなものだ。
 目次
 1 Linuxの興隆とコンピュータ文化
 2 文字の文化としてのコンピュータ文化
 3 文字の文化は声の文化を超え出るのか

 私の理解がどこまで妥当性をもっているのか、はなはだ心許ないのだが、おそらくその要点は、1990年代のLinux系の動向をとおしてUNIX系のOSの社会的な存立様態を典型例とする「コンピュータ文化」がじつは「文字の文化」を基礎としてしか成立不能であること、これを確定することにある。これが目次の「1」と「2」だ。問題は、タイトルと同じ「3」なのだが、私にはここがそれ以前の「1~2」と上手く接合できないでいる。ちなみに、そこは「モダン/ポストモダン」あるいは「近代化/再帰的近代化」という機軸で議論が整理されている。
 少し時間を置いて、再読してみよう。
 ただ、次の指摘は徹底して捉える必要のあることを感じる。

コンピュータを「電子メディア」として考えるとき,そこにはまさに電気メディアと電子メディアを分け隔つ特徴が別の形に変成されて組み込まれている……。このことは,電気的であることと,電子的であることの差異が,アナログとデジタルの差異に相当していることと関係している。デジタルのデータ,デジタルの技術を,われわれの経験においてアナログ的に経験する。

 私の不明さを顕現化させるばかりだが、これまでの私の議論においては、この視点が具体的な相できちんと設定できていなかったとおもう。
 ただ、吉田純氏が『インターネット空間の社会学』(世界思想社 2000)で指摘しているように、「コンピュータ文化」の分析には「エリート―大衆」という構図が必須であり、特に、1995年以降の「WWW」によるインターネットの大衆的な拡がりにおいては、これを明確に捉えておくべきこと、この点を考えると、「コンピュータ文化」が「文字の文化」であるという確定化に異論はないのだが、同時に、この2項対立的構図との関連も、やはり重要な必須の論点であるといえるようにおもう。

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March 08, 2007

美味な毛蟹

 昨夜、同僚の先生の口利きで、漁協から格安で購入した毛蟹を食す。
 旨い。
 酒もすすんだ。
 おそらく千歳空港あたりの土産物屋なら楽に¥3,000-以上はするだろう大物だ。
 こういうときには、「地産地消」というイデオロギーも、そう悪くはない。
 ビッシリと入ったミソも身もいずれも旨い。
 というわけで、ほんとうに美味しくいただいた。 

 とはいえ、私は常々、だいたい蟹なんてものは、そう大騒ぎするほどの代物だとはおもっていない。たしかに旨いのは認めるが、 浜茹でだろうと何だろうと、ボイルされた白い身の蟹はやはり食材の1つに過ぎないだろう。
 そういった点で考えると、今までに食べたプリミティヴな調理法のなかで一番は、「焼き蟹」だ。
 要は、生の蟹を炭火で焼くというよりは、炙る感じでいただく。
 だから、活きがよくなければ駄目だ。

 透明感のある身、そのまわりだけが少し白くなりかかった頃がちょうど食べごろである。

 これは旨い。もう無条件に旨い。
 だが、こうした機会はなかなか訪れない。
 お店の名前を失念してしまったが、新札幌駅のガードしたのお店は、値段も手ごろで、しかも絶品を出す。
 隠れた名店といってよいだろう。
 そんなお気に入りの名前をなぜ忘れるかといえば、閉店しているのでないかぎりは、行きば必ず辿り着けるからだ。
 こんなふうに、それはずいぶんと当たり前のことではあるが、私は徹底してプラグマティックに生きているようだ。

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March 07, 2007

社会科学基礎論研究会2007年度第1回研究会

 otani氏より社会科学基礎論研究会2007年度第1回研究会の「お知らせ」が届いた。
 少しフライング気味ではあるが、ひろくお知らせする。
 社会科学基礎論研究会は、このブログにコメントを寄せてくれているotani氏やかいしょー氏、inainaba氏、またsumita氏にも、それぞれに何らかの所縁のあるところである。今回も参加するつもりでいるが、みなさんにもお会いできるだろうか。

社会科学基礎論研究会からのお知らせ

 本年度第1回研究会を下記のように開催します。事前連絡は不要です。お誘い合わせのうえ、ご来場ください。

日時:5月26日(土)13時~18時
場所:大正大学(巣鴨校舎)
報告者(報告題目)
1.藤田寛之(立命館大学大学院)
  シュッツ言語研究ノートにみる〈あなた〉Du-関係と間主観性の問題
  (司会:木村正人(早稲田大学))
2.塚田穂高(東京大学大学院)
  教団類型論・再考―宗教運動の展開過程の分析のために
  (司会:大谷栄一(南山大学))
3.田村周一(神戸大学大学院)
  タルコット・パーソンズが論じる生と死(仮)
  (司会:鈴木健之(盛岡大学))

参加費:300円(学生200円)

教室は当日に正門付近に掲示します。
当日には、機関誌『年報 社会科学基礎論研究』(ハーベスト社)第5号(特集:準拠点としてのシュッツ)を頒布予定です。

事務局
〒170-8470 豊島区西巣鴨 3-20-1
大正大学人間学部社会学研究室(井出)気付
e-mail h_ide@mail.tais.ac.jp
http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssst/index.html

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March 06, 2007

新科目群

 一般的にいって、新しいことをはじめるときは、やはり何かを期待してしまうのだろうか、どこかでワクワクする感触がある。
 今回はというと、来年度から新たに担当する「新科目群」へのチャレンジがそれだ。
 今年度までは、通常ならば「卒論」に該当する「総合研究」という科目も担当していた。学生にそれなりにであれ自分自身と向き合うように促し、同時に、一定水準以上の作品に向けて指導していくのは、正直にいって結構たいへんな作業だとおもう。それに個々の学生諸君の関心は多様で、それに応じて事前にする、こちらの「仕込み」もなかなか骨の折れる作業ではあった。だが、むろん、それなりの手応えもあり、楽しくもあった。
 だから、やや残念ではあるが、カリキュラム変更に伴い、担当から外れることになった。とはいえ、どこかで気が楽になったのも事実だ。実際、多いときには時間割に設定されている「指導時間」の数倍の時間を要してしまうこともざらだったから、その点でも、それなりの余裕も生まれるはずである。
 ただ、以前のカリキュラムに比べて、「改正版」が「よりよい」とはおもえない。そのあたりが釈然としないままではあるが……。
 
 昨年の晩秋期から準備もはじめ、その成果として「講義ノート」もできかけている。
 こうした作業そのものは、苦労がないわけではないが、やはり楽しいものだ。
 来年度からは、前倒しでの開講になるので、いっせいに次の科目群を担当することになる。
 ・社会学
 ・現代社会の社会学
 ・社会問題の社会学
 ・社会調査論
 ・社会情報論
 ・社会メディア論
 ・基礎ゼミⅠ・基礎ゼミⅡ

 特に、「社会調査論」は私にとってはかなりの難物だが、努めて準備に集中しようとおもう。新学期はもう目の前なのだから。

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March 04, 2007

それは「体罰」ではなく……

 もしかすると誤解を受けるタイトルになっているかもしれないが、niftyのニュースで次の記事をみた。

市立中教諭が平手打ち体罰=男子生徒2人けが-愛媛(時事通信)  愛媛県宇和島市の市立中学校で2月、男子生徒2人がそれぞれ別の男性教諭から平手打ちの体罰を受け、鼓膜を破るなどのけがを負っていたことが4日、分かった。学校側は体罰を認め、保護者に謝罪したという。  市教育委員会によると、先月7日に学校寮で男性教諭(45)が、中2男子(14)に生活態度を注意。この際、あだ名で呼び返されてかっとなりほおを2回平手打ちした。生徒は左側の鼓膜を破るけがを負った。  同16日には校内で、別の中2男子(14)が禁止されている携帯電話を持ち込んだとして、男性教諭(35)から3回平手打ちされ、唇を2針縫うけがを負った。 [時事通信社:2007年03月04日 13時12分]
http://newsflash.nifty.com/news/ts/ts__jiji_04X394KIJ.htm

 ここでいいたいのは、「体罰」の功罪でもないし、それへの賛否両論への参与でもない。
 事件として報道されている「鼓膜を破るけが」も「唇を2針縫うけが」も、私が理解可能な、あるいは想定可能な「体罰」の範囲をはるかに超えている。
 これを何故、「体罰」としてカテゴリー化するのだろうか。それが理解できない。
 端的に、これは傷害事件だろうし、むろん、そうであれば刑事罰の対象である。
 これと同等の事態は長く「いじめ問題」の領域で達成され続けていた。
 周知のように、それが問題視されるに至ったのは最近のことだ。
 禁止されている「体罰」がまたもや発覚した云々として論議をする前に、たとえ結果的にそうであろうとなかろうと、こうした悪質な事案に対してまずは、明確な傷害事件であるという理解と、その認識に基づいた報道あるいは関係者による対処が何よりも先に達成されるべきではないだろうか。

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March 03, 2007

紀要と附録

 大学も含めた研究機関には定期的に刊行する『紀要』というものがある。
 とはいえ、大学などの関係者でもなければ、「紀要」といってもピンとはこないかもしれない。英語では「bulletin」だとおもうから、「報告誌」や「公報」といったものの類だと理解してもよいだろう。
 一応は「学術誌」ではあるのだが、「査読」といって「レフリーによって掲載の可否がチェックされる」体制が採られていない場合がほとんどだろうから、概して学術誌とは見做されない。その意味では、やや鬼子的な存在ではある。だから、『紀要』を廃止した大学などの話題を聞いたこともないが、「充実した紀要」という事態にもあまり目にかからない。
 むろん、私が勤務する大学にも『紀要』がある。もしも関心を持たれた方がいらっしゃったらこちらをご覧ください。
 そして、本学の『紀要』には「附録」がある。
 この「附録」が特徴といえば、そういえるかももしれない。
 私はかなりおもしろいとおもうのだが、何故か、大学関係者や学会・研究会などなどの方々からの評判はあまりよくないようにおもう。「なんで、こんなのが付いているの?」といった反応だから。
 でも、それ以外の方々からはかなり好意的にみられていると感じる。

 この「附録」は数年前から行っている、
 それを少し列記してみよう。
 ・クマザサ(の粉末)
 ・ホタテ貝殻(の粉末)
 ・「宗谷の塩」
 ・風車模型
 
 今年の附録は、大学近くの幼稚園から全面協力をいただいて、園児のみなさんに描いていただいた「子どもたちの未来予想図」である。
 今は完成に近づいている状態なのだが、さほど着想が豊かとはいえない私にとって、この「附録」は考える段階からあれこれと苦労も多い。だが、じつはプロセス自体が愉快なところがある。
 今回は、そのなかでも一番のものだ。どんな反応が返ってくるのか、楽しみにしている。
 この企画は、以前にも触れた稲垣先生が立案・実施されたものだが、全面的なご協力をいただいた園児のみなさんも含め、深く感謝している。
 

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March 01, 2007

「ネット文化」の「理想」?

 友人のsumita氏のブログに「「第二のデジタル・デバイド」?」が掲載されている。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070228/1172682741

 かれが言及しているのは「The Facta online」という「総合誌」の記事である。
http://facta.co.jp/article/200703060.html

 その要点は「パソコン見放す20代「下流」携帯族/第二のデジタル・デバイド出現。パソコンは30~50代限りで、高機能携帯でもう十分。(2007年3月号)」というものだ。

 まずは、「第2のデジタル・ディヴァイド」という視点の存在をお教えいただいたことに謝意を表明し、そのうえで、かれの言説への異和を書きたいとおもう。そのために、sumita氏の「結語」部分をやや長くに引用しよう。

この記事を書いた人の懸念はコンピュータ・リテラシーの一般的低下と(90年代半ばに壮んに語られた)万人が情報の発信者、表現者になりうるという「ネット文化」の「衰退」である; ……[中略]…… 勿論、そのような「ネット文化」の理想は支持するし、特にインターネットに関わる企業とか政府関係者はそのような「ネット文化」を規範としつつ振る舞う責任があると思う。しかし、理想は理想。(ビジネス文書も含めて)仕事*1として〈書くこと〉をしない人、インターネットを通して公に曝すような自己表現の欲求を持たない人にとっては、ケータイで十分じゃんということも理解できる。 / ただ、このような傾向(上にも書いたように、10代の動向を見る限りでは一概にそうもいえないのだが)が、公共性の衰退に繋がるとしたら、その傾向を肯定したくはないとはいえる。ウェブやblogという仕方で「情報を発信する」ということは、仮令その動機が私的なものであっても、またその内実が玉であろうが石であろうが、誰のものでもなく誰のものでもある〈知〉を累積させるということなのだから。

 いつもながら適切な応答であると感じ入ってはいるのだが、それを前提にして少しの異和の表明を開始したい。
 なお、はじめに附言しておくが、それはかなり微細な論点、つまり、「万人が情報の発信者、表現者になりうるという「ネット文化」……の理想」とそれへの「支持」いう論点のみである。
 私が気になった点を端的に書くと、次のようになる。
 はたして、この「理想」は如何なる位相で「支持」が可能なのだろうか、こんな疑念である。
 もちろん、この「理想」に対して私も積極的な異論も反論もない。だが、私は決して支持もしない。なぜならば、この「理想」は決して実現可能な要素を持ちえていないからである。あえていえば、それを「夢想」や「願望」「欲望」といった準位でならば、それなりに捉えうる途もありえるのだが。
 むろん、「現実的ではないからこそ理想なのだ」という反論もありえよう。だが、こうした「理想」を現実態へと着地させるためには、「現状ではそうではない主体を表現する主体へと変形する過程」が不可欠である。そうであれば、そこには新たな問題群が生じるだろう。「いったい誰が、どうやって変形をすすめるのか」、これが語られなければならない。
 この言明に対しては、「変形する主体」ではなく「主体の変形」が指摘されるかもしれない。だが、たとえそうであるにせよ、やはり、この「理想」がそれとして留まり続けられるのは、「そのような技術的な想定が可能だ」という意味でしかないだろう。そうであれば、その程度の「想定可能性」を「理想」と呼ぶべきではないとおもえるのだが如何だろうか。
 あえていえば、それに「理想」という名辞を当ててしまうことで、結局は「公共性の衰退」を危惧しなければならない事態に陥るのではあるまいか。
 上手く伝わるだろうか。以前に書いたもので恐縮だが、以下の拙稿を参照いただければ幸甚である。
http://www.wakhok.ac.jp/library/kiyou/kiyou1PDF/wak01_harie.pdf

 そこでの要諦は、藤村正之氏の議論に依拠して呈示した「マス・リテラシー」概念にあるが、その重要性は今回のテーマでも同様であるとおもえる。

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