「文字の文化」考
周藤真也氏の「文字の文化は声の文化を超え出るのか」(『社会学ジャーナル』28 筑波大学研究室 2003;125-139)を読了して数日が経つが、じつは読後感の焦点が上手く定められないでいる。
題名はオングへの論拠を印象づけるが、内容はそれに直接的に対応したものではない。とはいえ、じっさい、そこで周藤氏はオングに言及もし、論拠もする。
その理路は次のようなものだ。
目次
1 Linuxの興隆とコンピュータ文化
2 文字の文化としてのコンピュータ文化
3 文字の文化は声の文化を超え出るのか
私の理解がどこまで妥当性をもっているのか、はなはだ心許ないのだが、おそらくその要点は、1990年代のLinux系の動向をとおしてUNIX系のOSの社会的な存立様態を典型例とする「コンピュータ文化」がじつは「文字の文化」を基礎としてしか成立不能であること、これを確定することにある。これが目次の「1」と「2」だ。問題は、タイトルと同じ「3」なのだが、私にはここがそれ以前の「1~2」と上手く接合できないでいる。ちなみに、そこは「モダン/ポストモダン」あるいは「近代化/再帰的近代化」という機軸で議論が整理されている。
少し時間を置いて、再読してみよう。
ただ、次の指摘は徹底して捉える必要のあることを感じる。
コンピュータを「電子メディア」として考えるとき,そこにはまさに電気メディアと電子メディアを分け隔つ特徴が別の形に変成されて組み込まれている……。このことは,電気的であることと,電子的であることの差異が,アナログとデジタルの差異に相当していることと関係している。デジタルのデータ,デジタルの技術を,われわれの経験においてアナログ的に経験する。
私の不明さを顕現化させるばかりだが、これまでの私の議論においては、この視点が具体的な相できちんと設定できていなかったとおもう。
ただ、吉田純氏が『インターネット空間の社会学』(世界思想社 2000)で指摘しているように、「コンピュータ文化」の分析には「エリート―大衆」という構図が必須であり、特に、1995年以降の「WWW」によるインターネットの大衆的な拡がりにおいては、これを明確に捉えておくべきこと、この点を考えると、「コンピュータ文化」が「文字の文化」であるという確定化に異論はないのだが、同時に、この2項対立的構図との関連も、やはり重要な必須の論点であるといえるようにおもう。
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