大谷栄一『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』

私の若き友人の一人、大谷栄一氏より『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』(課題番号17720012 平成17~18年度科研費補助金 若手研究B)をご恵贈いただいた。
記して謝意を表しておきたい。
じつは、かれからは昨年末に上梓された『現代と仏教』(末木文美士編 佼成出版社 2006)もお贈りいただき、まだ、そのお礼もきちんとはできないままでいる。このままでは申し開きのしようもないので、ここで、雑で申し訳ないが、少し読後感なりを書いておきたい。
かれはそこで「公共宗教としての仏教?(国家)」を執筆されている。戦前の「日蓮主義運動」を鳥瞰しつつ、仏教の「市民宗教」としての可能性について論じ、「市民仏教」という述語化もされている。かれの呈示する理路に基本的に異論はない。ただ、そのタイトルにある「公共宗教」という言辞を拝見したときに、これも自明なことではあるのだが、「宗教」にわざわざ「公共」を冠化しなければならないほどに、それが徹底して世俗化されているという認識に、少し切ない感傷めいた気分になったことを附言しておきたい。
さて、今回いただいた「報告書」の中心は妹尾義郎研究にある。そのなかの論文「近代仏教運動の政治参加の分析――大日本日蓮主義青年団と新興仏教青年同盟の事例」を拝読――本来ならばこう書くべきなのだが、実情を正直に書くと、簡単に斜め読みさせていただいた。
丹念な史料の「掘り起こし」からなり、なるほど「実証的研究」と呼ぶに相応しい。そのご苦労に頭が下がる。1点、少し気になったのは「結成当初から、新興仏青は仏教革新運動なのか、社会運動あるいは政治運動なのかが、同盟員たちの間で問題となった」という指摘に関わる了解である。大谷氏は謂わば「内在的視点」へと、つまり、当事者の意味づけへと強く方向性を指示されている。むろん、この視点そのものに異論も反論もない。だから、大谷氏がこうした「新興仏青」のメンバーたちが問題とした論点を呈示するのはよく判る。
だが、明らかに門外漢であり、もしかするとずいぶんと「外在的に」みているかもしれない私からすると、妹尾義郎あるいは、この団体(新興仏青)の方向性は、まさしく「宗教」にわざわざ「公共」を冠する必要のない時代性にあって、そこで活きいきと大衆的に機能していたものとして構想された宗教――かれらの場合は、日蓮上人の教義思想とその社会的な存立様態への帰還を切実に熱望する、1つの「原理主義(運動)」にみえる。
こうした視点は方法論的に相容れないのだろうか。だが、私の理解できた範囲では、「宗教」と「政治」との<あいだ>に位置する妹尾義郎ではなく、むしろ「宗教者」でしかない、だが「原理主義者」としての妹尾義郎のほうがはるかに腑に落ちるのだ。
さらにいえば、妹尾義郎らを「原理主義者」として捉えることで、少なくとも妹尾が歩んだとされる「赤色化」の意味合いもより鮮明にみえてくるのではないか、そんな雑駁な印象をもった。
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Comments
コメントをありがとうございます。いつもながらのご慧眼。感服いたしました。
せっかくですので、この場をお借りして、リプライをさせていただきます。
まず、「公共宗教」についてですが、基本的に張江さんの見解に賛成です。ただ、近代日本宗教史研究では、明治初期の神仏分離・廃仏毀釋と明治中期の明治憲法による政教分離の制度化によって、(神道以外の)宗教は公的関わりを禁じられたというのが基本見解かと思います。
ここでのポイントは、「公共性」をどのように理解するかだと考えます。ただ、この近代日本の「公共性」問題はさまざまな議論が錯綜しているのが、現状かと思います。
この「公共性」問題に、近年の宗教研究における「公共宗教論」を接続させ(そもそも「公共宗教論」はそうしたものですが)、近代日本宗教史に関する問題提起を行おうというのが、拙論の意図です。
ただ、拙論では説明や全体の見通しが不十分でしたので、今後、さらに検討してみたいと思います。
また、妹尾の日蓮主義、新興仏教にみる「原理主義」的性格ですが、これもご指摘の通りです。ただし、難しいのが、「原理主義」がマジックワードであることです。この概念で何でも説明できてしまうところがあり、その定義が不明確な点が問題です。
この定義問題は、自分なりに考えてきたつもりなのですが、今回は、この「原理主義」を用いませんでした。検討を要する問題だと思います。
「原理主義」を用いるかどうかは別として、内在的な視点から、妹尾たちの運動の意味構成とそれに伴う組織構成を考える際、そもそも「宗教と政治」という設定自体を問い直すべきなのかもしれません。
このことは、先の「公共性」問題にもつながる論点だと思います。
勉強になりました。心より御礼申し上げます。
Posted by: otani | April 03, 2007 at 11:48 AM