専門知とメリトクラシー
sumita氏の「専門知への不信」、それともただの無関心?」に触発され、少し「専門知」と「日常知」との関連について触れてみたいとおもう。
専門知への不信」が存在するというのは別に悪いことではなく、とても健全なことだ。日常生活者から見れば、何であれ「専門知」は奇異なものだからだ。そこで批判とか突っ込みが行われる。これは哲学的思惟や歴史学的遡行へと深化される可能性がある。
あいかわらず適切な指摘内容と手際の良い提示の仕方だとおもおう。
ただ、「専門知」と「日常知」との関連を主題化するならば、どうしても触れておかなければならない問題群があるとおもう。
それが「メリトクラシーmeritocracy」だろう。
むろん、こうした「社会編成原理」を問題にすることで、「知」の等高線という社会的な「知の分配地図」がみえにくくなるという、新たな問題性も浮上することになる。だから、あえてこのモメントを視野に入れず=脇に置き、「知の等高線」という準位に問題を還元するという手法も妥当ではある。
だが、「専門知」への両義的な態度形成を主題化するのであれば、やはり、「大衆化したメリトクラシー」は必須の要素にちがいない。
「不信」というよりも、「専門知」は自らの生の状況にはレリヴァンスを持たないものとして関心から外されているということになる。「不信」があるとすれば、具体と抽象の間を往ったり来たりするという振る舞いそれ自体に対してなのではないか。かくして、「専門知」は無傷のまま外部から切り離されて、内輪では業績とやらが生産され続ける。また、「専門知」と日常生活の間に横たわる空隙は(一見すると哲学っぽい)人生論やら疑似科学が埋め立てるということになる。
2つの引用を対比的に捉え、一種の備忘録のつもりでメモを記しておきたい。
第1の引用にみられるのは、「日常知」が基盤機能として、換言すれば、妥当性の基準として機能することをよく示している。この側面には充分に留意する必要がある。
だが、問題は第2の引用に現れている「知の往還」への忌避感である。むろん、それを「無関心」といってもよい。だが、それは同時に、「専門知」への両義的な態度の端的な表明でもあるはずだ。
このときに、そこで機能しているのは「原理として大衆化した」、それゆえ、自らも一応は「納得している」はずのメリトクラシー自体への両義的な態度であるようにおもえてならない。
もしもそうであれば、論点は、やはりメリトクラシーをめぐって考察されなければならないのではあるまいか。
これらの問題系に関しては、拙稿(「大衆教育社会と〈自己実現の物語〉」)を前提にしつつ、要は、その先を考えなければならないのだとおもう。
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