卒業式と想像の共同体
昨日、ある中学校の卒業式に臨席する機会を得た。
現在、都市部ではどうなのだろうか、よく判らないが、昨日のものは、どこか懐かしい、私自身も経験してきたものから大きく逸れることのない、その意味でいえば、一定の「形式」に則ったものだった。
子ども時代から「卒業式で泣く」という心性は、共振するという要素が皆無だという意味において、まったく理解できないままだが、それも多く観られ、その点でも「普通の卒業式」だったのだとおもう。
感じ入ったのは、別段に「新しい発見」というわけではないのだが、「卒業」を「春」と連結させる意味論的な水準における語彙およびその連合の頻出ぶりだった。
さすがに、内地のままの常套句をそのまま用いるのは「不適切だ」とおもうのだろう、「まだ雪があるとはいえ……」とか「雪を押しのけて……」とか、何とか「現実」とのギャップを埋める工夫は随所にみられる。これには老若の区別はない。まぁ、諸先生方による「ご指導」という要素は考えなければならないが、在校生や卒業生の言説内容から推察すると、それも比較的少ないといってよいようにおもえる。何しろ、個人的な、つまり、友人関係に還元可能な固有名が複数登場する「答辞」であったのだから。その意味でいえば、それは「ユニーク」なものである。
だが、いずれにせよ、そこで語られた諸言説の基本は「今は春だ」という、揺るぎのない確信で共通する。
私も北海道に移住してずいぶんと経つので、例えば「マイナス3度」で「春」を感じる経験もした。つまり、この気温で「暖かさに向かう変化」を実感したこともある。そのときは、自らに「不覚にも……」と叱責しつつも、それは意図性ではどうにもならず、ただただおどろきではあった。
しかし、昨日の卒業式で語られていたのは、そうした「生活上の実感」ではない。
そこでは、「春」は「芽吹く季節」として、換言すれば、「(生命の)躍動」の予兆として、それゆえ、「未来という、つまり〈これから〉という未定の開かれた時間に向かう期待を込められた」メタファーとして使用されている。むろん、それは、たんに制度化された言辞あるいはその連合であって、じつにありふれたものにすぎない。
だが、それはまさしく、「和人」という「農耕民」の文化をマジョリティとして形成された「想像の共同体」を直線的に指示している。
そんなわけで、「人間って、観念のなかで生きているなぁ」という、謂わば自明的な事態を改めて痛感する経験となった。
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