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April 28, 2007

討議月間の様相

 大谷氏より新たなコメントが届けられていた。こちらを参照していただきたい→。
 今回の議論は、一応、ここで終結することになるだろうが、こうして振り返ってみると、じつに楽しかった。
 大谷氏には重ねて謝意をお伝えしなければならない。
 後々の整理のためにも、《討議月間》の様相を呈したかれとの議論経過を以下にまとめておきたい。

 ・「大谷栄一『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』」がはじまり。
 ・この拙文に対する大谷氏からの「コメント」。
 ・それに応答したのが、拙文「「原理主義」というマジック・ワード」。
 ・この拙文に対する、かれからの「再度のコメント」。
 ・それに応答した拙文「世俗化と脱世俗化」
 ・この拙文に呼応していただいたのが、「最新のコメント」というわけだ。

 この討議には、そもそも別段に大きめな異論や反論あるいは相違点があったわけではない。その点でいうと、今回の討議はすぐれて《それぞれの論点と同時に、それを把握するための、それぞれの文脈の確認-再確認》という作業であったようにおもう。
 そして、こうして振り返って改めて痛感するのは、ことば、あるいは文章というのは、何とも難しいものだというものだ。
 むろん、そもそも何らかの《文脈が共有されている》のでなければ、そこで討議が成立することは難しい。だが、同時に、個々の論者は、それぞれに謂わば《固有の文脈》をそこににじませている。これは不可避の事態だろう。
 だから、それらをそれぞれに確認あるいは再確認すること、これには、かなりの《信頼の地平》が形成されているのでなければならないだろう。
 いい換えれば、そこでは討議以前に、討議によって獲得される可能性のある信頼が先行的に・地平的に形成されていることが要請されている。
 まぁ、これは何も討議に限定される話ではない。相互行為全般にいい得ることだ。だから、《生きている》っておもしろいといえば、それまでだが、コストパフォーマンスからいって、やはりやや臆病であることも、そう悪くはない。
 どこかで時間を確保して、ジンメルでも再読してみたい、と感じている。

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April 26, 2007

他者化という機制について

 sumita氏の「霊的危機或いは狂気」を拝読しながら、他者化という機制について少し考えてしまった。

多分「忘却」に期待するのは無駄だろう。「忘却」しようと敢えて意図的に引き受けるのでなければ。理性は記憶の保護監察を引き受けるのか。「忘却」それ自体が忘却される。ということは、記憶はいつでもフラッシュ・バックしうるということ。別の言葉で言えば、あなたが記憶を所有しているのではなく、記憶があなたを所有しているのだということになる。この「忘却」或いは「忘却」の忘却は「狂気」についても当嵌まりそうだ。さらにこの場合、〈他者化〉という操作が絡んでいる。「狂気」を特定のカテゴリーに帰属させることによって自分は安心してばっくれられると思い込むこと*3。しかし、それも無駄だろう。だとしたら、「忘却」を忘却したり〈他者化〉したりするよりは、寧ろそれを積極的に抱きしめたり、それと戯れたりする方がいいのかも知れない。

 ここで語られている基本的な論旨に異論はない。いや、それどころか大いに啓発されたと正直にことばを添えるべきだとおもう。とくに、「「忘却」の忘却」や「記憶があなたを所有している」という件には目を見開かされた。だが、「〈他者化〉という操作」という指摘には少しの異和がある。
 私の理解では〈他者化〉という機制は、かなり原基的な世界の分節化の様式に端を発している。簡単に図式化すると、そもそも〈他者化〉という機制は《かれら》の存立とパラレルなものだとおもえる。
 つまり、一方に《われわれ》が存立するなれば、同時に、他方には《かれら》が存立する。この両者のあいだに位置するのが《よそ者》だろう。
 そうであれば、〈他者化〉とは、そもそもが、世界を分節化し、謂わば《かれら》化させる機制ではないのだろうか。
 まして、「狂気」が焦点化される場面であれば、そもそも「狂気」がそれとして同定される、まさにその場面において、すでにつねにその機制が〈他者化〉という作用そのものとしてはたらいているというべきではないのだろうか。
 むろん、この機制の政治的な活用に対して批判することは可能だし、それはじっさいにこれまでも多く為されてきているだろう。また、むろんこれからも、その必要性が減ることはないと考えている。
 私は、「〈他者化〉という操作」を、こうした政治的な活用を指すものと理解した。
 この了解が妥当であるとすれば、やはり少し引っかかってしまうのだ。というのも、すでに述べたように、私には「狂気の他者化」には、それが不可避的に成立する、かなり基柢的な位相があるようにおもえるからである。
 くり返しになるが、この機制の政治的な活用は徹底して批判されなければならないだろう。だが、その機制そのものは、やはり不可避であり、私たちにできることといえば、せいぜい、それを固定化させないために、その機制をくり返し明るみに出し、あるいは、それを異化させること、そのために〈他者化という操作〉と戯れてみせること、だいたいは、そんなことぐらいにおもえるのだ。

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April 21, 2007

教育機関と安全性

 わが国でも、2001年に起きた池田小学校の事件以来、学校はどこかで《襲撃に備える》ようになった。
 それはそれで、よく理解できる話だ。
 危機管理のイメージは多面的であるべきだし、その事前の把握はやはり必要なことだからだ。なお、こうした危機管理に関しては山田雅彦氏のサイトに詳しい。参照先はこちら
 とはいえ、じつは、そjもそも教員に殉職というカテゴリーは不適切でしかないように感じてきた。じっさいのところ教員に「二階級特進」といった制度は存在しない。暗黙のハイアラーキーはどこの職場や集団にもあるにせよ、明示的な階級制にはなっていない以上、そうした特例的な措置は存立しようもないからだ。
 しかし、過日に米バージニア工科大学で起きた銃乱射事件で、聴講する学生たちを守るために自ら犠牲になったリビウ・リブレスク氏の死は、あまりにも殉死のイメージに近い。いや、まさにそのものといってもよいかもしれない。かれがホロコーストからの生存者であったことが報じられると、かれの《英雄的な行為》に、どうしても、どこかに、瞬時に下された覚悟の死のようなものを読み込んでしまう。
 残念ながら、私には、そうした《英雄的な死》は迎えられそうもない。
 それどころか、もしもああした場面に遭遇することになったら、おそらくは、もっともっとみっともない行いしかできそうにもないとおもえる。そもそも、はじめて、あの事件の報道に接したときに、すぐにおもいついたのは「死んだふり」でしかないし、学生は池田小で被害にあった子どもではない。
 それはそうなのだ。
 だが、そうおもいつつも、同時に逡巡もある。
 だが、じっさいのところ、やはり私は山田雅彦氏やC.W.ニコル氏のように凛としてはいられそうにもない。
 そんなわけで、「この76歳のおやじ、すげぇー」とただただ感嘆し、むろんかれへのリスペクトもあるのだが、それでも、わが身の鏡にするにはあまりにも眩し過ぎるといわざるを得ない。
 リビウ・リブレスク氏をはじめとする多くの被害者のご冥福を心よりお祈りするとともに、かれの死があくまでも特例的な《英雄的な死》であって、決して輝かしいモデルとして象徴化されないことを望みたい。
 そして、こうした銃乱射事件の報道に接する度に、アメリカでもきちんと《刀狩》はやったほうがよいとおもわずにはいられない。事件後のアメリカで護身用の銃がよく売れていると聞くにつれ、さらに、そうおもわずにはいられない。

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April 18, 2007

世俗化と脱世俗化

 大谷氏から、以前にもましてさらに長文の「コメントへのコメントへのコメント」をいただいていた。しかし、2週間にもわたる体調不良のために、それへの返答ができないままでいた。ご容赦いただきたい。
 数日前から体調がやや上向きになってきたこともあり、かなり遅くなってしまったが、かれへの応答を書いておきたいとおもう。
 まずは、拙文「「原理主義」というマジック・ワード」に対して、過分といってもよいほどの、じつに丁寧な応答をいただいたことに記して謝意を表明しておきたい。そのなかで、私が論点とした「世俗化と脱世俗化との同時進行」に関しては、基本的な賛同をいただけた。この点に関しては、やはり私にとっても、大谷氏との応答がなければ、このようなすっきりしたかたちで呈示できていたかどうか、かなりあやしいものだとおもっている。その意味でも、重ねて謝意を明らかにしておきたい。
 さて、かれの指摘の最大の要点は、「国家神道」をどのようなものとして捉えるか、この1点にある。そこへのかれの提起は、「国家神道は公共宗教(あるいは市民宗教)であると考えることができる」というものだ。これもまた、やはり適切な指摘だと感じる。
 このあたりの領域にはあまり明るくないので、あくまでも臆見の範囲内とお断りする他はないのだが、これまでの「国家神道」に関する論議はあまりにも「政治」との連動から捉えられ過ぎていたような印象がある。それを、日蓮主義への「政治的な」断罪と同じ認識空間といってもよいだろう。
 だが、《政治によって収奪された文化や宗教》といった議論は、そもそもはじめに結論ありき、といってよく、今日的にいって適切な議論とはいいえないとおもう。これは「国体」をめぐってもまったく同様にいいうるだろう。
 これをどのように位置づけるか、たしかに、これは大問題である。だが、日蓮主義運動が〈官製の市民宗教〉に寄り添いながらも、じつはその換骨奪胎を目指していたといい得るとすれば、ある種の重層化された対位法的な歴史記述の動態性を確保することは可能ではないかとおもえる。
 せっかく長文のコメントをいただいておきながら、残念ながら、現時点でいいうることは、この程度のことでしかない。後は、ただただご海容いただく他はない。

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April 17, 2007

ロシア・ジャズ

 友人の鈴木正美さんが「趣味の領域」でも作品を昨秋に出版されていた。かれはいつも穏やかに熱い。
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 『ロシア・ジャズ――寒い国の熱い音楽』(東洋書店 2006)。
 それにしても、かれの機動力はほんとうにすごい。それに、じつは年下なのだが、いつも「人生の先輩」という感触がある。
 
 ここでは、近日に開催予定の、かれが企画する、おもしろく・楽しそうなイベントを紹介しておきたい。
 遠方に居住するというのは、こういうときには「顔もだせない」という残念な結果しか予測できない。
 まったくもって、「やれやれ」というところだ。
 もしかしたら、当日には、かれもクラリネットを吹くのだろうか。

ロシア・ジャズ再考

日時:4/22(日) Open 14:00 Start 14:30 Close 17:30 予定
入場料金:¥1,980(1ドリンク付)

ナビゲータ:鈴木正美(新潟大学教授/ロシア・ジャズ研究家)
レギュラーゲスト: 岡島豊樹(東欧0スラヴ音楽リサーチ・センター長/『ジャズ批評』元編集長)


詳しくは、こちらを参照ください。

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April 16, 2007

『コロキウム:現代社会学理論・新地平』第3号

 授業と学務以外には何もできずに、空き時間はほとんど床に臥す生活がもう2週間も続いているが、『コロキウム――現代社会学理論・新地平』第3号(最新号)が届いたので、目次だけでもご紹介しておく。
 この長引いた風邪を気にかけてくださった方から「鍋焼きうどん」を推奨されたのだが、残念ながら、咳でうどんをすするのもしんどい。授業中にはトローチをいくつも舐めているからだろうか、あまり食欲もないし、煙草もまずい。ほんとうは吸わなければよいのだろうが、「愛煙家のプライド」がそれをさせない。困ったものだ。
 さて、『コロキウム』は昨年に第1号第2号が刊行されている。発行は東京社会学インスティチュート。発売は新泉社
 今号は特集が「身体・アジア・グローバル社会」ですべて英文で4本。また、小特集として「グローバル化・エスニシティ・他者」が邦語で6本、他に研究ノートが1本、掲載されている。
 目次は以下のようになっている。

【特集(英文)身体・アジア・グローバル社会】

The Religious Roots of the Rights Revolution
         ……………………………………………………Bryan S. Turner
On 'Genetic' Thinking in Schutzian Phenomenological Sociology:Toward a deeper level of 'Intersubjectivity'
         ……………………………………………………Kazuhisa Nishihara
On the Discussions of Public Sphere in Contemporary Japan:From a viewpoint of 'Intersubjectivity'
         ……………………………………………………Kazuhisa Nishihara
Poverty and Micro-credit:With special reference to Grameen Bank in Bangladesh
         ……………………………………………………Shamsunnahar Khanam

【小特集 グローバル化・エスニシティ・他者】
W.E.B.デュボイスのアジア論――中国の植民地支配をめぐって
         ……………………………………………………本田量久
エスニック・マイノリティへの行為論的視角――アレントとゴッフマン
         ……………………………………………………橋本みゆき
近接性と距離――バウマン道徳論におけるジンメルの援用をめぐって
         ……………………………………………………杉本 学
中国における無形遺産保護運動の原動力
         ……………………………………………………呂 斌
「ルース概念」の再検討――タイ研究への序奏
         ……………………………………………………翁川景子
日本における教育と若者像
         ……………………………………………………ブラン・シルヴァン

研究ノート
ギデンズ「構造化理論」における時間論と存在論――モダニティ論の地平へ
         ……………………………………………………安田裕昭

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April 10, 2007

『現代社会学理論研究』創刊

 風邪で伏せているあいだに日本社会学理論学会の機関誌『現代社会学理論研究』第1号が届けたれていた。
 詳しい目次はこちらを参照。
 昨年第1回大会(2006年9月12日-13日)の特別記念講演の翻訳2本と投稿論文8本が掲載されている。
 残念ながら、まだ掲載論文は未読であるが、後刻にでも紹介したいとおもう。
 さて、明日からは前期の授業がはじまる。
 風邪のほうはまだまだ治ったとはいえず、微熱と咳もある。だが、休むわけにもいかない。
 過去を振り返ってみると、決して丈夫とはいえないが、それでも、こうしたことはそうそうはないのだが……。それでも、新学期というものは、なぜか相変わらず、不安と期待を抱かせる。

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April 04, 2007

「原理主義」というマジック・ワード

  3月28日に書いた「大谷栄一『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』」に対して、大谷氏自身から、やや長文のご丁寧なコメントをいただいた。記して謝意を表しておきたい。
 こうした場合、「コメントへのコメン」ト欄を活用すべきなのかもしれない。だが、今回のタイトルにも用いさせていただいたように、かれの「「原理主義」がマジックワードであること」というご指摘には目を見開かされたおもいがした。
 よって、より長文が可能な本文で応答することにした。
 とはいえ、「応答」とはいってみたものの、その内実は「なるほど、腑に落ちた」という同意の表明でしかないのだが。483185626609_aa240_sclzzzzzzz_v44069872_
 たしかに、大谷氏がご指摘されるように、このタームで「何でも説明できてしまうところがあり、その定義が不明確な点が問題」だろう。
 ただし、私がこの概念で呈示したかったのは、これも大谷氏が適切にまとめられているように、「そもそも「宗教と政治」という設定自体を問い直すべき」ではないか、というものである。
 この2項対立図式は、一方では問題を整理しやすくするが、他方では問題を隠蔽してしまう可能性も含んでいるとおもえてならない。
 この点は、かつて大谷氏の『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館 2001)を書評させていただいた折に、「ナショナリズム問題」として触れたものと同根であろう。これに関しては、社会科学基礎論研究会のサイトに掲載いただいている拙稿「〈書かれなかった著作〉は存在しないのか」をご参照いただきたい。以下の引用は、その一部である。
 

「法国冥合」という原理にとって、「国」は不可欠である。もしも「智学……という日蓮ファンダメンタリズムを……近代的なものであった」(395- 369)と語ることができるとすれば、それはかれが「近代社会において生起したさまざまな問題への対応」(397)を為したことに因る以上に、かれの〈明治〉というアイデンティティ、あるいは、そこで形成された〈ネーション〉というアイデンティティこそが注視されなければならないだろう。これは、智学が宗教者である前に〈明治人〉であること、それゆえ、かれにとって「国」とは〈ネーション〉でなければならないことを意味している。ここで私たちは、〈はじめてネーション〉と遭遇した人びとの驚きの地平を考えてみる必要があるだろう。

 ここでいいうるのは、明治期という、宗教にとっては世俗化の進行する、その只中で、同時に、脱世俗化あるいは「原理主義化」が生起しているという構図ではないのだろうか――なお、「脱世俗化」というタームは、おそらくは一般的なものではないようにおもえるので、少しの註解を附しておきたい。臆見の範囲内では、角田幹夫氏の「現代社会と聖なるもの」(『リアリティの社会学』八千代出版 1990)に詳しいが、要は世俗化の果てに顕れたスピリチュアリティの興隆といった社会的な性向とでも理解しておいていただきたい。
 さて、もしもそうであるとすれば、「政治と宗教」という基本図式は、そもそも「日蓮主義(運動)」にとっては、さして意味を成さないだけでなく、むしろ、この「宗教(思想+実践)運動」の「内在的な理解」を拒むものとして機能してしまうのではないだろうか。というのも、あえていえば、「政治と宗教」という認識図式はまさに世俗化をもってはじめて安定的に機能するものだといえるようにおもえてならないからである。

 じつは先日、まったくの別件で大谷氏から電話をいただき、かれのコメントがブログにうまく反映されなかったことがあったように伺った。現行のコメントはその後に、再度、かれが附してくれたものだ。
 そして、私にはほぼ同様の事態に感じられるのだが、じつは今回の「コメントへのコメント」は昨日に掲載完了できるつもりでいたが、偶然にも「ニフティのメンテナンス」で後刻となった。
 そんな訳で、奇縁というものはあるのだろうかと、ふと、そう疑いたくなった。

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