教育機関と安全性
わが国でも、2001年に起きた池田小学校の事件以来、学校はどこかで《襲撃に備える》ようになった。
それはそれで、よく理解できる話だ。
危機管理のイメージは多面的であるべきだし、その事前の把握はやはり必要なことだからだ。なお、こうした危機管理に関しては山田雅彦氏のサイトに詳しい。参照先はこちら→。
とはいえ、じつは、そjもそも教員に殉職というカテゴリーは不適切でしかないように感じてきた。じっさいのところ教員に「二階級特進」といった制度は存在しない。暗黙のハイアラーキーはどこの職場や集団にもあるにせよ、明示的な階級制にはなっていない以上、そうした特例的な措置は存立しようもないからだ。
しかし、過日に米バージニア工科大学で起きた銃乱射事件で、聴講する学生たちを守るために自ら犠牲になったリビウ・リブレスク氏の死は、あまりにも殉死のイメージに近い。いや、まさにそのものといってもよいかもしれない。かれがホロコーストからの生存者であったことが報じられると、かれの《英雄的な行為》に、どうしても、どこかに、瞬時に下された覚悟の死のようなものを読み込んでしまう。
残念ながら、私には、そうした《英雄的な死》は迎えられそうもない。
それどころか、もしもああした場面に遭遇することになったら、おそらくは、もっともっとみっともない行いしかできそうにもないとおもえる。そもそも、はじめて、あの事件の報道に接したときに、すぐにおもいついたのは「死んだふり」でしかないし、学生は池田小で被害にあった子どもではない。
それはそうなのだ。
だが、そうおもいつつも、同時に逡巡もある。
だが、じっさいのところ、やはり私は山田雅彦氏やC.W.ニコル氏のように凛としてはいられそうにもない。
そんなわけで、「この76歳のおやじ、すげぇー」とただただ感嘆し、むろんかれへのリスペクトもあるのだが、それでも、わが身の鏡にするにはあまりにも眩し過ぎるといわざるを得ない。
リビウ・リブレスク氏をはじめとする多くの被害者のご冥福を心よりお祈りするとともに、かれの死があくまでも特例的な《英雄的な死》であって、決して輝かしいモデルとして象徴化されないことを望みたい。
そして、こうした銃乱射事件の報道に接する度に、アメリカでもきちんと《刀狩》はやったほうがよいとおもわずにはいられない。事件後のアメリカで護身用の銃がよく売れていると聞くにつれ、さらに、そうおもわずにはいられない。
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