メディア論的還元
拙稿「メディア論の生成と人工補完」( 『稚内北星学園大学紀要』第7号:67-82)に対して周藤真也氏から批判が寄せられていた。この拙稿は昨秋に口頭報告したものに少しの加筆修正を施したものだが、かれからは、その段階からメイルにてご指摘をいただいていた。
それにどのように応答すればよいのか、判断が定まらず、結果、当該箇所にはまったく手を加えなかった経緯がある。
ご批判は、私が「マクルーハンのアナロジーはこの人工補完と身体とを同値する」とした件に対するものだ。
その要点はマクルーハンのアナロジーが問題なのではなく、「我々の経験ではそれらは同値である」というものである。
このご批判をいただいたときに、即座に「妥当な指摘だ」とも感じた。
だが、同時に、「それらをたんに同値とするのは明らかな誤謬ではないか」とのおもいも生じた。
何が問題なのだろうか。
適切であると同時に、異和を感じる。
あれこれと考えていたが、そのうち、雑事に紛れてしまい、この重要なご指摘は、そのまま私の《脇に置かれたまま》に放置されていた。
いいわけになるが、《放置》はしていたが、《なきものにした》わけではない。
そして、やっと、この《矛盾》は矛盾ではないのではないかとおもいはじめている。
というのも、私たちの経験が、両者の事態が共に自らの経験の内に生起していることを明証的に告げているとおもえるからだ。
《人工補完はたんなる私の身体ではない》。
何故ならば、それは《装着可能》だからだ。
つまりは、こうだ。
《外された眼鏡》はたんなる眼鏡であって、それは私の身体ではない。だが、それが装着され、異和を感じさせない程度に身体化されているとき、換言すれば、《生きられた人工補完》はまさに《身体に同値されている》。
この、かなり当たり前の事態にいたり、マクルーハン理論の出立点が《メディア論的な還元》によってもたらされたものとして解釈することができるようにおもえた。
というわけで、周藤さん、ありがとう。
以上、まだ、かなりぐちゃぐちゃしているが、急ぎ、メモとする。
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