多忙極まる
「基礎研シンポ:差別の現象学」の当日の様子などを書くつもりで少しの準備もしかけていたのだが、忙しくて、それどころではなくなっている。
その理由に関しては、ここでは一般的に「学務」とだけいっておく。
いずれにせよ、この忙しさはしばらくは続きそうだ。
次に記載するときには、基礎研シンポの討議内容などに関してはおそらくはまだまだ無理かもしれないが、せめて「3本のご報告」ぐらいには言及したいとおもっている。
「基礎研シンポ:差別の現象学」の当日の様子などを書くつもりで少しの準備もしかけていたのだが、忙しくて、それどころではなくなっている。
その理由に関しては、ここでは一般的に「学務」とだけいっておく。
いずれにせよ、この忙しさはしばらくは続きそうだ。
次に記載するときには、基礎研シンポの討議内容などに関してはおそらくはまだまだ無理かもしれないが、せめて「3本のご報告」ぐらいには言及したいとおもっている。
「基礎研シンポ:差別の現象学」が無事に終了した。
じつは、今回はポスターが間に合わなかった。何年来も、こうしたことはなかった。
これに象徴できるなように、準備が万全とはいえなかった点は反省しなければならないだろう。むろん、明確な、しかも複合的な理由はある。
しかし、結果はよくみておかなければならない。じっさい、おそらくはそうしたことが影響したとおもえるが、参加人数はやや低調だった。この点は、ご登壇いただいた皆さんにも深くお詫びしなければならないとおもう。
さて、それとは別に、今回シンポで司会を担当し、改めて司会役の難しさを再確認した。
司会がどこまで語ってよいのか、この設定はなかなか難しい。今回に直面したのはこの問題系だ。
当日の討議の途上で「対称性」に関して質問を設定させていただいた。これは、まだ直感的な範囲内のことなのかもしれないが、差別論の議論の方向づけに深く関わるとおもえる。
私は「対称性」をある種の規範とする行為場面に、別段、忌避感はない。だが、議論(差別論)において、もしも「対称性」に規範性のはたらきをもたせてしまうとしたら、かなり問題ではないかとおもえたからだ。
この点はぼやけたままだったが、どうしても気になった。
個々人が「主体」であること、これを、まずは理路の出立点に据える。この流儀に異論も反論もない。だから、それが前提的な扱いであったとしても、問題ではないだろう。
なぜ、こんな当たり前のことをいうのかというと、むろん、この出立点が差別論の地平を支えるからだ。
換言すれば、差別論は必ず〈非主体化させられた、つまりは、そのように強要された非主体的な主体〉は〈主体〉へと回復させられるべきという〈解放のイメージ〉をどこかで保持していなければならないということだ。
だが、それは「非対称性」から「対称性」への〈回復あるいは実現のイメージ〉と同値ではない。
この点を明確にしておかないと、差別論は〈主体であることを強要する議論・運動〉にもなりかねない。
むろん、そこで問われるべきは、この〈主体〉とやらの内実になるはずだ。
これはまた、ハイデガーの『存在と時間』で語られた「世人」とも関連する論点であるだろう。それは凋落態と罵られるのかもしれないが、それでも〈われわれ〉として行為することは、安堵感を全的に保障してくれる。そこは、それはそれは居心地がよい。何しろ、判断はすでにつねに為されているのだ。だから、つまらないともいえるのだが、だからといって、〈主体〉とか〈本来性〉という高みから、一方的にがたがたいわれなければならない代物でもあるまい。そもそも、そうした存在仕方と無縁な現存在なんてありえないのだし……。
そして、「世人」からも脱し、なおかつ〈主体〉でもないような在り様、それはそれで、ときどきはあったりもする、このあたりがイメージできないと、丸山真男でも読んでいたほうがましかもしれないと感じてしまう。
以上では自分なりの論点整理を試みた。
ご覧のように、まだまだかなり雑なままだが、もう少し整理をし、このテーマで「覚書」程度のものであれ、論文も書いてみたいと感じた。
というわけで、当日の報告と討議に関しては、また後刻にしたい。
ニフティ・ニュースにあったロイター通信による報道で、「ドイツ南部リンダウで、バスの運転手が1人の女性乗客に対し、格好が「セクシーすぎる」としてバスを降車するよう求めた」という。
この女性の憤りはそれはそれで判る気がするが、これに対するバス会社のコメントは、僕にはより適切におもえる。
バス会社の広報担当者は「運転手にはそれが許可されており、彼は正しいことをした」とコメント。その上で「他の乗客の安全に危険となるので、運転手が気をそらすようなことはあってはならない」とし、運転手を擁護した。http://newsflash.nifty.com/news/ta/ta__reuters_JAPAN-269051.htm
こうした葛藤、軋轢、要は「もめごと」がきちんと生起することがたいせつなのだとおもう。
さて、少し問題をはっきりとさせてみよう。
第1に、どう考えても個々人は「性的な存在者」だ。
この当たり前の事態を前提とするならば、社会機構において、それを「あたかもないものとして」過ごす想定のほうが不当だという結論にしかならないだろう。
むろん、だからといって、「性的側面」に焦点を当てる、あるいは、そうしがちであることが、すでにつねに許容されるといいたいわけではない。むろん、その結果はすでにつねに状況依存的だろうし、これは何も「性的側面」に限られたものでもないだろう。要は「もめごと」というプロセスが存在すること、このことの重要性である。
つまり、「もめごと」とは、そこで生起した事態を社会的に如何なるものとして構成するのか、その過程そのものなのだ。換言すれば、この過程を確保する意味は大きい。つまり、「もめごと」は本来的には不可避なもとして社会機構に埋め込まれているもののだろう。
ふと想いだしたのだが、僕が高校生の頃、学内では「制服廃止」が議論されていた。とりたてた「運動」ということもなく、何故か1970年の高校2年生のときに、「制服」は廃止されて「標準服」と呼称が変わった。回りの高校のあちらこちらでは試験期間ともなれば「バリ封」があったと噂話で聞いていたから、おそらくは、それが主因だったのではないかとおもっている。
さて、何故この話題をだしたのかというと、私服登校が可能となってしばらくしたある日に、生活指導の中年の教師が何となくといった感じで、あることばをつぶやいていたのを書きたかったからだ。
「あんなミニスカートが教室にいられたら、授業にならないよ……」。
いったい何故、このことばを耳にしたのか、その具体的な状況はいっさい忘れてしまった。だが、僕が「そこ」にいることを、少なくともそのときまで、かれは知らなかったこと、これは確かだとおもう。
というのも、僕はおもわず「うーん!」と小さくうなってしまい、かれはその小さな声に心底、ほんとうに驚き、少しの恐怖をその目に宿していたのだからだ。
「この正直者」といって笑うほどの技量もなく、さりとて、「教師なのに何て事をおもっているのだ!!!」と詰問するほどに教師を「聖職視」してもいなかった。
でも、それが本音だという直感は生じていて、そこにあったリアリティは忘れていない。
むろん、かれのつぶやきが「真実」であったにせよ、かれはマスメディアにくり返し登場してしまう「エロ教師」ではなかった。これはかれの名誉のためにも書き添えておきたい。
問題は、そこに垣間見えたリアリティをどのようなものとして捉えるかにあるだろう。
はじめに断っておくが、僕は別段に、いわゆる「エロ教師」に同情などしていない。
だが、彼らが「性的存在という側面を隠蔽し続けてきた社会機構」と相関的な関係にあることも否定できないと考えている。とはいえ、現行の日本の教育システム、とくに初等教育において、教師も児童も共に「性的存在者である」という了解は、あたかも「ない」ものとして成立しているとおもえるからといって、それが「エロ教師」の罪を軽減させるといいたいのではない。そんなことはありえまい。
だが、現行のマスメディアの論調は「ここにも、まだいたエロ教師!!」という指弾以外のものではないだろう。
たしかに被害に遭ってしまった児童たちのことを考えれば、徹底的な社会的制裁は当然である。むろん、それへの批判などはない。
だが、いつまで「エロ教師狩」を続けても、「ジェノサイド」には至らない。
なぜならば、この「聖戦」の正当性の理念そのものが、まさに「エロ教師」を再生産しているのだから。
もう少し事態を穏やかにみるだけでもよいだろう。
教員採用時に、その人物の「性癖」は問われない。だから、確率論的には「エロ教師の予備軍」がそこに混じっている可能性は否定できない。
これは自明ではないだろうか。
そうであれば、人権を無視して採用時に「性癖チェック」をしないのであれば、こうした「予備軍」も含めて、換言すれば、だれもが「性的な存在者」であることを前提にしたシステムへと移行すること、くわえて、「もめごと」を軽減化させることへの愛好を諦め、その適切な使用を心がけること、これで、少なくとも被害者である児童たちの「心の傷」は最小に留められるのではないかとおもえる。
「基礎研シンポ:差別の現象学」の登壇者紹介の第3弾、つまりは最終回は、コメンテータをお引き受けいただいたお二人、山田富秋氏と佐藤裕氏である。
といっても、ご承知のようにご両名共に、私などよりもはるかに著名人だから、いわば《トンビが鷹を語る》といった構図になってしまうが、ご容赦いただきたい。
・山田富秋氏(松山大学)
山田氏の基礎研へのご登壇は、これで2度目になる。最初は、2年前のシンポジウム「準拠点としてのシュッツ」で「シュッツの志向性分析を「知覚の衝突」の観点から読み直す」をご報告いただいた。このときには、拙稿「シュッツ科学論の二重性へ」(『年報社会科学基礎論研究』第3号)での山田シュッツ論批判への応答という意味合いがあった。その意味でも、山田氏のご登壇には深く感謝している。ご承知のように、かれの仕事はほんとうに精力的で、結果、じつに多作だから、「差別論」関係で比較的初期の作品(好井裕明氏との共著)を挙げてみたい。
・『排除と差別のエスノメソドロジー―「いま‐ここ」の権力作用を解読する』新曜社 1991.
・佐藤裕氏(富山大学)
佐藤裕氏の基礎研へのご登壇は今回がはじめてになる。
じつは、日本社会学会で幾度もおみかけしてはいるのだが、まだ個別な交流は実現できていない。だから、今回を良い機会にしたいと考えている。
・『差別論』(明石書店 2005)
昨夜、ささやかな祝杯を挙げた。
それは、快進撃を続けているスワローズのためにではない。それはまだまだ先のことだ。
じつは今年度から、「就職講座」の企画・運営を担当している。このように書くと、昨年度には別の担当者が存在したかのように感じられるだろうが、その想定に着地点はない。というのも、昨年度にシリーズ化された「就職講座」は皆無だったからだ。だから、私たちが「はじめてのこと」をやっていることになる。
この一連の企画のなかでも特に象徴的な一里塚といえる「就職講座:企業側から見た 求められる人材像①」と題した講演会が昨日、行なわれた。
聴衆が50人を超えた。こう書くと、たいした数値にはみえないだろうが、弱小校では立派な数字なのだ。
学生たちは講演を真剣に拝聴し、質問も相次いだ。しかも、それなりに的を射た質問だし、真顔で「ためになった」「楽しかった」と感想を語ってくれた。
講師にお招きした藤田隆明氏(㈱藤建設常務取締役)の講演内容も的確で、しかもコンパクトだ。その準備などを考えると、ほんとうにお忙しい方であるだけに、かれのご厚意にはただただ感謝する以外にはない。
こうした就職講座の成功に一喜一憂するというのも変な話に聞こえるだろう。だが、それなりの成果がだせなければ、ただちに「首脳陣」とされる一群の方々から、私には常軌を逸したとみえる程の批判が向けられる。この、いつものパタンが待っている。何とも不思議な場の雰囲気だが、このパタンが、当たり前のことが何もできなくなるという不思議さを再生産する機制を担っていて、結果として、かの一群の恣意的な判断だけが遂行される。
これが繰り返されてきただけに、どうしても一定のかたちを残さなければならない。
そんなわけで、まだ途上であるが、少しの安堵を肴に、相方と祝杯を挙げたのだ。
いつか、素敵な相棒のことも書いてみたいとおもっている。
「基礎研シンポ:差別の現象学」の登壇者紹介の第2弾は、前回の中村文哉氏の他にご報告される2名、杉本学氏と郭基煥氏である。
以下にご両名の「簡易リスト」を添えておくが、これも決して網羅的なものではない。ご理解いただきたい。
杉本学氏(名古屋大学)
杉本氏の作品はどれも、じつに手際の良い整理をされる点が特徴的だとおもう。以前に杉本氏の「ジンメル論に対する書評(「より徹底した“微分する力”へ」)」でも同様の論旨を自らのタイトルに込めたのだが、かれの思考=志向にはまさに「微分する力」があるとおもう。
杉本氏の場合、近年の作品傾向から「ジンメル研究」の側面が前景化しているとおもうが、それ以前には「排除の問題系」に主題的に取り組んでおられた。
・「差別的関係の基礎としての「われわれ」」(『現代社会理論研究』7号、人間の科学新社 1997)
・「支配と多数決における個人と社会」(『21世紀への橋と扉』世界思想社 2001)
・「相互作用と社会の実在性のあいだ」(『年報社会科学基礎論研究』1号、ハーベスト社 2002)
・「近接性と距離」(『コロキウム 現代社会学理論:新地平』東京社会学インスティチュート 2007)
郭基煥氏(愛知大学)
郭氏はすでに昨年6月に単著『差別と抵抗の現象学』(新泉社 2006)を上梓されているので、ご存知の方々もより多いのではないかとおもう。
この著作は郭氏の精力的な活動を1冊にまとめられたものなので、以下には、その後の作品を紹介したい。
・「在日の物語と異邦人同士の交流」(『現代社会学理論研究』第1号 日本社会学理論学会)
以前にこのブログで、「7月21日(土)午後(於:大正大学)」に開催される「社会科学基礎論研究会2007年度第2回研究会【シンポジウム(第8回):差別の現象学】」の登壇者の方々について紹介したい、と書いた。だが、じつはそのまま「放置状態」でいた。
これを少し反省し、これから「3回程度」に分けて、「紹介記事」を載せていきたいとおもう。
最初は、このシンポジウムをコーディネートいただいき、ご報告もお願いしている中村文哉氏。
中村文哉氏(山口県立大学)
中村氏というと、どうしても「シュッツ理論研究」のイメージが強いが、「差別論」に関しても、1990年代を中心に精力的なお仕事を残されている。以下の簡易リストは網羅的ではないとおもうが、その点はご海容をお願いしたい。
いずれにせよ、かれにとって現象学的社会理論の精緻なご研究と「差別論」や「ハンセン病者問題」への論及とはつねに同根の場所から動機づけられているようだ。
なお、以下のリストは何れもが「単著」である。
・「異文化接触のリアリティ――A.シュッツの「よそ者」論を読む」(『人権教育研究』第6号、花園大学人権教育研究室 1998)
・「差別行為と観察者――現象学的差別行為論のパラダイム転換」(『人権教育研究』第5号、花園大学人権教育研究室 1997)
・「社会関係と差別行為─類型化と差別的意味構成」(『戦争・戦後責任と差別』花園大学人権研究室編 京都法政出版 1996)
・「「伝聞」と被差別世界の解釈――シュッツの「社会的世界の構造分析」の見地から」(『人権教育研究』第4号、花園大学人権教育研究室 1996)
・「差別行為と他者理解─現象学的行為論の見地から」(『人権教育研究』第3号、花園大学人権教育研究室 1995)
・「偽装的作為としての差別行為─『否定』をめぐる差別の意味構造とその意味構成」(『人権教育研究』第2号、花園大学人権教育研究室 1994)
日本社会学理論学会第2回大会のお知らせを掲載する。時期は「9月3日(月)・4日(火)」とまだかなり先なのだが、会場(埼玉大学 東京ステーション・カレッジ)の関係から、「参加事前登録」が必要とのこと。
私などは、かなり緩く考えてしまう習慣があるようで、「事前登録が必須」となると、それだけで、何だか急にハードルが高くなってしまう。とはいえ、むろん私は参加する予定だが。
いずれにせよ、盛会になることを祈念している。
【1】日本社会学理論学会 第2回大会について
【2】報告申込の方法について
【3】参加事前登録の方法について
──▼【1】────────────────────────
9月3日(月)、4日(火)の両日に埼玉大学(東京ステーション・カレッジ)にて日本社会学理論学会・第2回大会を開催いたします。大会開催に先立ちまして、(1)一般報告希望、(2)参加事前登録を募集いたします。大会概要をご参照の上、報告・事前登録を希望する方は、下記の申込方法をご参照の上、お申し込みください。
【大会概要】
日時:9月3日(月)、4日(火)
会場:埼玉大学 東京ステーション・カレッジ
〒100-0005
東京都千代田区丸の内1-7-12 JRサピアタワー9階
アクセス:http://www.saitama-u.ac.jp/coalition/tsc-guide.html
なお、会場には人数制限があります。人数に余裕があれば当日参加も可能ですが、なるべく事前登録をしていただきますようお願い申し上げます。
参加費:
3日(月)のみ:500円
4日(火)のみ:2,000円
3日(月)、4日(火)の両日:2,000円
プログラム:
9月3日(月)
13:00~17:00 一般報告
17:00~18:00 総会
9月4日(火)
10:00~11:45 シンポジウム
「質的研究の現在:会話分析の可能性をめぐって」
登壇者:
串田秀也(大阪教育大学)
樫村志郎(神戸大学)
コメンテーター:
江原由美子(首都大学東京)
茂呂雄二(筑波大学)
司会:
西原和久(名古屋大学)
12:30~16:30 シンポジウム
「会話分析と社会学」
登壇者:
John Heritage(UCLA社会学部教授)
"Constructing and Navigating Epistemic Landscapes: Progressivity,
Agency and Resistance in Initial Elements of Responses to
Yes/No Questions"
Steven Clayman(UCLA社会学部教授)
"Question Design and Press-State Relations"
総合司会:
山崎敬一(埼玉大学)
コーディネーター:
川島理恵(日本学術振興会特別研究員)
16:30~ 懇親会
共催:
埼玉大学重点研究「ヒューマンインタラクションの解明に基づく人間支援の脱領域的研究」
──▼【2】────────────────────────
【報告申込の方法】
報告を希望する方は、下記の報告申込方法をご参照の上、お申し込みください。なお、応募者多数の場合は、研究委員会において選考し、今回はご報告いただけない場合がありますので、ご了承ください。選考結果につきましては8月上旬にご連絡いたします。
■ 報告テーマ
報告テーマは自由ですが、社会学理論学会にふさわしいものが優先される場合があります。
■ 報告者資格
すでに会員である者か、報告エントリー期限(7月31日)までに入会申込書を学会事務局に送付した者で、大会開催時までに本年度の会費を完納している者。共同報告の場合は、報告者全員がこの条件を満たしていることが必要となります。
■ 報告申込と報告要旨
報告希望者は、報告予定者全員分の氏名・連絡先(住所、メールアドレス)と報告概要(タイトル、400字程度の報告要旨)を、7月31日までにメールまたは郵送(郵送の場合は必着)にて事務局宛に申し込んでください。なお、自由報告の報告時間は25分を予定しております。
■ 申込先
sst@wwwsoc.nii.ac.jp
(事務局からの返信をもって申込受理といたします)
〒464-8601 名古屋市千種区不老町
名古屋大学文学部会学研究室(西原)気付
日本社会学理論学会事務局宛
──▼【3】────────────────────────
【参加事前登録の方法】
会場の収容人数に制限がございます。そのため、参加事前登録を受け付けます。なお、参加費については当日受付のみとなっております。事前振込は受け付けておりませんのでご注意ください。
■ 登録方法:メールによる申込制(先着順)
■ 宛先:秋谷直矩 akiya0427@hotmail.com
■ 事前登録受付開始:
7月9日(月)0時より
※9日0時以前の申込は無効となります。
■ 登録内容:
下記の内容についてご連絡ください。
*****************************************************
第2回日本社会学理論学会大会の事前参加登録に申し込みます。
氏名:
所属:
参加希望日:
3日(月)
4日(火)
※ 希望する日の後ろに○をつけてください。
連絡先(メールアドレス):
*****************************************************
■ 登録後の手続き:
担当(秋谷)からの返信をもって受理といたします。定員(3日、4日とも80名まで)に達した場合は、ホームページ上でも告知いたします。
■ 報告希望者について:
報告希望の申し込みをする方につきましても、事前参加申込をお願いいたします。
一般的に「大学の危機」とか「大学冬の時代」とか語られてから、すでに久しい。だから、この主題そのものに論及するのであれば、すでに陳腐にみえる状態が現実化している。だが、こうした現況は〈狼少年的な効果〉の産物だとおもう。その点でいえば、マスコミもずいぶんと酷なことをしてくれたものだと、心底おもう。
私の本務校の現況は、一般的な言辞の準位で語られる「大学の危機」の域を完全に超えている。しかも、それが恒常化しているから、構成メンバーたちは、どうにも鈍化している。それをみていると、人間って凄いなぁ、とおもう。不安に押しつぶされないように、ちゃんと心的機制がはたらいてくれるのだ。
こう書いている私にしても、おそらくは例外ではないのだとおもう。そうした〈鈍感になった私たち〉が現況を明白な危機だと認識し、この数年間を点検してみると、じつは納得してしまう事態に陥る。
なるほど、こんなことも実施してこなかったのか、それならば、危機が顕在化するのも仕方がないかもしれない。
こんな独白が学内の〈私的空間〉のあちらこちらで、密かにささやかれているように感じる。
むろん、これは〈公的空間〉で語られなければならないものだ。
それは自明なほど理解している。そうであるにも拘わらず、どうにも現況を変えるベクトルがみえてこない。
まさに袋小路だ。
そうした状態のために、今年度から学務がかなり増えた。激務というほどではないのだろうが、学務で多忙であることは確かだ。ほんとうに忙しい。時間的な余裕が急激に減少している。
そうしたなかで、お引き受けした数本の原稿執筆が遅れている。
それに、以前にも書いたように『年報 社会科学基礎論研究』第5号(ハーベスト社)の編集作業も進展をみないままである。
申し訳ないとおもう。
だから、ブログを書いている場合ではないのかもしれないのだが、それとこれとでは、必要とする時間の幅がまったく異なるのだ。
それでも、共著論文を何とか2本、かたちにできた。
それはそれで良しとして、次の作業に入ることにしよう。
さて、上記の話題とはまったく異なるのだが、角田幹夫氏がブログで基礎研シンポ(差別の現象学)に触れている。そこにある記述が妙にさりげないのだが、説得力というか信憑性のある一言が添えられている。
このシンポジウムへの出席は叶わないのだが、できれば〈遠隔的な介入〉もしてみようかなとも考えている。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070704/1183512670
いったい「遠隔的な介入」とは何だろうか。判らない。
まさか角田氏のことだから、上海の路地裏あたりでテレパシーでも修得してしまったのだろうか。
気になる。
天田城介氏からかなり「ワークショップ」的な講演会の情報が寄せられた。日時が基礎研のシンポジウム「差別の現象学」と重複しているのだが、開催場所が離れていることもあり、選択をされるのは参加者であるわけだから、ひろくお報せすることにする。
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点
PTSDと「記憶」の歴史――アラン・ヤング教授を迎えて日時:2007年7月21日(土)13:00~18:00(開場12:30)
会場:立命館大学衣笠キャンパス以学館2号ホール
(キャンパスアクセスURL:http://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/koho/annai/profile/access/kinu_l.html)参加費:無料
▼プログラム
13:00~13:05 開会の辞 西成彦(立命館大学大学院先端総合学術研究科長)
13:05~13:10 紹介 宮坂敬造(慶應義塾大学文学部教授)
13:10~14:10 基調報告 Allan Young 教授
"PTSD in the War on Terror" [通訳:宮坂敬造(慶應義塾大学文学部教授)]
14:10~14:25 指定質問1 小宅理沙(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生
14:25~14:40 指定質問2 片山知哉(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生
14:40~15:00 Allan Young 教授のリプライ
15:00~15:20 休憩
15:20~15:40 研究報告1 植村要(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)
15:40~16:00 研究報告2 櫻井浩子(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生
16:00~16:20 Allan Young 教授のコメント
16:20~16:40 休憩
16:40~16:55 全体討議コメント1 池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授)
16:55~17:10 全体討議コメント2 天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
17:10~17:30 Allan Young 教授のリプライ
17:30~17:50 フロアからの質問 & Allan Young教授のレスポンス
17:50~18:00 閉会の辞 松原洋子(立命館大学大学院先端総合学術研究科副研究科長)
司会:サトウタツヤ(立命館大学文学部教授)*講演は英語で行われますが、逐次通訳・パソコン筆記要約の準備がございます。
【Allan Young 教授の紹介】
1938年アメリカ合衆国ペンシルヴァニア州フィラデルフィア生まれ。1959年ペンシルヴァニア大学人類学部卒業。1974年同大学人類学部博士(Ph.D)。ニューヨーク大学、ケース・ウェスターン・リザーヴ大学などを経て、現在、カナダ・ケベック州モントリオール(モンレアル)のマッギル大学社会学的医学研究部門主任教授、人類学部・医学部教授。彼は、我が国では『PTSDの医療人類学』によって1998年ウェルカム医療人類学賞を受賞したことで知られていますが、以後、同テーマで継続的に一連の研究を行いつつ、脳の進化等、進化精神医学の最近の一連の広いテーマも精力的に精査し、北アメリカの精神医学関係の学会でも多くの論文を発表しています。主催:
立命館大学グローバルCOEプログラム 「生存学」創成拠点共催:
慶應義塾大学グローバルCOEプログラム 論理と感性の先端的教育研究拠点形成協賛:
科学研究費補助金「患者主導型科学技術研究システム構築のための基盤的研究」(代表:松原洋子)
科学研究費補助金「社会状況や海外学説との関連からみた本邦臨床心理学の歴史的展開」(代表:佐藤達哉)
科学研究費補助金「米国の高齢者医療福祉制度における老いと死をめぐる表象の政治学」(代表:天田城介)◆お申し込み方法
ご芳名、ご所属(任意)、ご連絡先(任意)をご記入の上、EmailまたはFAXにてお申し込みください。
・お申し込み先 Email:liaisonk@st.ritsumei.ac.jp FAX:075-465-8245◆お問い合わせ先
立命館大学人文社会リサーチオフィス(担当:荒堀・大下・仲山)
〒603-8577京都市北区等持院北町56-1
TEL:075-465-8358 FAX:075-465-8245
Email:liaisonk@st.ritsumei.ac.jp
URL :http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hs/hs/news/news_07/arsvi/allan%20young.html会場へのアクセス:
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/koho/annai/profile/access/kinu_l.html◆お願い
※駐車場がございませんので、ご来場の際は公共交通機関をご利用ください。
※会場内での飲食はご遠慮ください。
――――――――――――――――――――――――
詳細は以下のarsvi .com内のページを参照してください。
http://www.arsvi.com/a/e2007a.htm#0721
学務で忙しかった。それに加え、友人のご尊父が他界され、その連絡なども重なり、心に占める「余裕のようなもの」が消えてしまった。
その葬儀には参列できなかったが、心よりご冥福をお祈りしたい。
少し年下の友人であるだけに、じつは、かけるべきことばも上手く定まらないでいる。月並みで陳腐な処世的な言辞なのかもしれないが、「これは順番なのだ、避けられないことなのだ」、とでもいう他はないように感じている。
私自身、「孝行息子」とは程遠い人生の歩み方をしてきてしまった。
別段、そのように意図したわけではないし、さりとて、それに深い後悔もない。だが、友人の心像・リアリティがわが身を照射せずにはおかない。《弔いは反省なのだ》とおもったりもするが、この感慨とても、これからの人生にあって、これまでの行動指針を変更させるとは、どうもおもえない。
何とも厄介だ。
私の父は比較的若くして他界した。気の小さな大酒のみだったが、かれへのささやかなリスペクトは今も忘れない。
とりあえず、久しぶりに母に会い、いつもの小言と愚痴と説教とを、うんざりするぐらい聞きたくなった。
遠方に居住すると、そんなことすらも、「計画を立て、チケットを予約し、……」などなど、この情緒とは無縁な作業を経なければ実現しない。
それを、事も無げに遂行する私自身も含め、このシステム、あるいはよりひろく現代社会の約束事は何とも不思議な気がする。
たしかに、場面に応じた《態度変更》を適切に行なうこと、これは現代人の必須条件だろう。むろん、それに対してノスタルジックな批判を浴びせるつもりはない。それはそうなのだが、情緒を《個人内在的なもの》、つまりはプライヴァシーの領域とすることで成立する《態度変更を制度化したシステム》は、やはり無理がありすぎるのではないか。さりとて、代替案があるわけではない。だが、それでも、このシステムは「心を痛めつけるなぁ」と感じずにはいられない。
だが、ここから先は《ロマンティックな夢想》の領域だ。私は、そこへは赴かない。
いずれにせよ、故人のご冥福を心よりお祈りする。
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