「シンポジウム:差別の現象学」が無事に終了
「基礎研シンポ:差別の現象学」が無事に終了した。
じつは、今回はポスターが間に合わなかった。何年来も、こうしたことはなかった。
これに象徴できるなように、準備が万全とはいえなかった点は反省しなければならないだろう。むろん、明確な、しかも複合的な理由はある。
しかし、結果はよくみておかなければならない。じっさい、おそらくはそうしたことが影響したとおもえるが、参加人数はやや低調だった。この点は、ご登壇いただいた皆さんにも深くお詫びしなければならないとおもう。
さて、それとは別に、今回シンポで司会を担当し、改めて司会役の難しさを再確認した。
司会がどこまで語ってよいのか、この設定はなかなか難しい。今回に直面したのはこの問題系だ。
当日の討議の途上で「対称性」に関して質問を設定させていただいた。これは、まだ直感的な範囲内のことなのかもしれないが、差別論の議論の方向づけに深く関わるとおもえる。
私は「対称性」をある種の規範とする行為場面に、別段、忌避感はない。だが、議論(差別論)において、もしも「対称性」に規範性のはたらきをもたせてしまうとしたら、かなり問題ではないかとおもえたからだ。
この点はぼやけたままだったが、どうしても気になった。
個々人が「主体」であること、これを、まずは理路の出立点に据える。この流儀に異論も反論もない。だから、それが前提的な扱いであったとしても、問題ではないだろう。
なぜ、こんな当たり前のことをいうのかというと、むろん、この出立点が差別論の地平を支えるからだ。
換言すれば、差別論は必ず〈非主体化させられた、つまりは、そのように強要された非主体的な主体〉は〈主体〉へと回復させられるべきという〈解放のイメージ〉をどこかで保持していなければならないということだ。
だが、それは「非対称性」から「対称性」への〈回復あるいは実現のイメージ〉と同値ではない。
この点を明確にしておかないと、差別論は〈主体であることを強要する議論・運動〉にもなりかねない。
むろん、そこで問われるべきは、この〈主体〉とやらの内実になるはずだ。
これはまた、ハイデガーの『存在と時間』で語られた「世人」とも関連する論点であるだろう。それは凋落態と罵られるのかもしれないが、それでも〈われわれ〉として行為することは、安堵感を全的に保障してくれる。そこは、それはそれは居心地がよい。何しろ、判断はすでにつねに為されているのだ。だから、つまらないともいえるのだが、だからといって、〈主体〉とか〈本来性〉という高みから、一方的にがたがたいわれなければならない代物でもあるまい。そもそも、そうした存在仕方と無縁な現存在なんてありえないのだし……。
そして、「世人」からも脱し、なおかつ〈主体〉でもないような在り様、それはそれで、ときどきはあったりもする、このあたりがイメージできないと、丸山真男でも読んでいたほうがましかもしれないと感じてしまう。
以上では自分なりの論点整理を試みた。
ご覧のように、まだまだかなり雑なままだが、もう少し整理をし、このテーマで「覚書」程度のものであれ、論文も書いてみたいと感じた。
というわけで、当日の報告と討議に関しては、また後刻にしたい。
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