February 07, 2008

「皇国少女」たちの修学旅行

 少しご無沙汰をしていた。
 単純に忙しかったというのが、その理由。
 上京し、またもや、あれこれと慣れない仕事をそれなりに終えて、最北の街に戻ってからも、やはり雑事に追われていた。
 それに、寒さと疲れからだろうか、腰痛のために、どうにも動きが鈍くなっている。

  昨日、ふとしたことで、同僚の池田裕子先生が昨年に書かれた「樺太から北海道、本州への旅」という『日本教育史往来』(No. 166 日本教育史研究会 2007年02月28日)に寄せられたエッセイを再び目にした。
 そこには、樺太にあった豊原高等女学校の修学旅行が描かれている。
 「中学校」相当をもって「高等」と名づけるあたりに、「女性に(高等)教育は不要」という「妄念」をにじませているのだが、それでも、この「女学校」という響きには、どこかに「古きよき時代」を像化させる魅力がある。
 さて、そこに描かれた、伊勢神宮と靖国神社という、戦前のコスモロジカルな2極の中天を目指した「皇国少女」たちの就学旅行の、その余りのハードさには心底驚かされたのだが、それでも、かのじょたちには、きっと皇国思想を無化する屈託のない強靭な笑顔があったにちがいないと感じた。
 このように書くと、「民衆」という概念をロマンチックに想定しているとでもおもわれてしまうかもしれないが、私にはそうした性向はないつもりだ。
 要は、政治思想という大鉈で割り取られた戦前の社会像では、かのじょたちの笑顔は散り散りにされ、具体的な像を決して結ばないことを指摘したかっただけだ。
 その意味でも、よい研究へと成長する決定的な萌芽に出会ったと感じる。
 それゆえ、もう少しましな研究環境を造らなければと、意を新たにした。

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January 28, 2008

『トラウマの果ての声』

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 同僚の岩本和久氏より新著『トラウマの果ての声』(群像社 2007)をいただいた。
 記して謝意を表わしておきたい。
 氏にとって、おそらくは2冊目の単著だとおもう。
 私のように単著のない者にとっては、少し眩しい感じだ。
 昨年の後期に、私はというと共編者の大谷栄一氏のご厚意にもたれかかったかたちでしか共編著『ソシオロジカル・スタディーズ』(世界思想社 2007)を準備することができなかった。
 だが、氏はというと、私と同じような研究環境にあり、同じような「激動」を共に体験したはずなのだが、さらに単著を上梓された。
 「この差はいったい何なんだ!」と、わが身に詰問の1つもしたくなる。
 さほど他人との比較などせずに生きてきたつもりだが、どうにも、そんな気分にもなってしまう。

 とはいえ、まぁ、いずれにせよ、目出度い。
 このスタンスが大事だ。
 ということで、「次は私の番だ、順番、順番」とでもおもっておこう。

 さて、『トラウマの果ての声』には「新世紀のロシア文学」という副題が附してある。
 まだ、パラパラと飛ばし読みの段階ではあるが、この説明口調の副題があることで、よく焦点が定まったかたちになるのだろう。しかし、おそらくは私が「ロシア文学」とは無縁にあるからなのかもしれないが、本書は、「新世紀のロシア」の社会意識あるいは「精神の質」のようなものがどういった準位にあるのかを、よく示しているように感じる。その意味でいうと、「文学」に限定されなくてもよい構図が成立している。
 それを大業に語ると、たぶん「文明批評」みたいな位相に成立する言説なのではないかとおもう。
 第1章の「日本語で現代ロシア文学を読むためのブックガイド」がきちんとした見取り図を提供してくれるので、私のような門外漢であっても、ある程度は読み進むことを可能にしてくれている。その意味でも、よい構成になっていると感じる。
 それにしても、ソ連邦崩壊という〈歴史が終わるという体験〉はたんに体制が革命されるという事態とは決定的に異なっているようにおもっていたのだが、それでも、この世界に次世代が新規に参入し、そうした決定的な事態もまた、それまでの次世代がそうであったように、たんなる伝統へと踏みしめられ、あるいは、それらは内化されつつ反発の対象とされる。
 そうした、当たり前といえばそれまでなのだが、そうした文化の機制を再確認させられる、よい機会となった。
 この点も、記して感謝を表わさなければならないと感じた。
 
 

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December 04, 2007

『揺らぐ性・変わる医療――ケアとセクシュアリティを読み直す』健康とジェンダーⅣ(根村直美編 明石書店 2007)

20071201 若き研究仲間である田中俊之さんより『揺らぐ性・変わる医療――ケアとセクシュアリティを読み直す』健康とジェンダーⅣ(根村直美編 明石書店 2007)をお送りいただいた。
 記して謝意を表わしておきたい。
 じつは私にとって田中氏は、かれが学部4年時に卒論ゼミを担当した関係なので、所謂「教え子」に当たる。
 そのかれが、すでにいくつもの大学で教えはじめている。
 かれのキャリア・経緯からいって当然のことではあるのだが、どこかで不思議な感触もある。
 そんな訳で、年を取るのも、そう悪くはない、と感じている。
 
 田中さんがご担当されたのは、「Ⅳ ヘテロセクシュアリティ(異性愛)研究の深化をめざして」に収められている第7章「オタクの従属化と異性愛主義」(167~182頁)である。
 以下に、見出しを載せておく。

オタクの従属化と異性愛主義
・流行としてのオタクカルチャー
・オタクはいかに語られてきたのか
・オタクの従属化と男性性の複製性
・異性愛主義の彼岸
・社会はオタクを必要としている

 要諦は〈ヘゲモニックな男性性〉と〈従属的男性性〉との対比関係にあるようだ。
 これから、きちんと味読したいとおもう。

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November 16, 2007

『〈入門〉グローバル化時代の新しい社会学』を紹介する

20071101 すでに話題としては触れているが、改めて『〈入門〉グローバル化時代の新しい社会学』(西原和久・保坂稔編 新泉社 2007)を紹介する。
 不思議なもので、いつの間にか、著作の出版も、ネットの本屋さんの情報とならないかぎり、どうも出版されたという実感と結びつかなくなっている。
 これは、おそらくは、私が著作を日常的に書店で購入しなくなった、あるいはできなくなったという事実と関係しているのだとおもう。
 本書は編集上の工夫が細部にわたっている。帯に「入門から応用へ」とあるが、たしかに両者がつながるように工夫されていると感じる、よい作品だとおもう。
 以下に、アマゾンのサイトにある「商品の説明」を引用しておく。
 

内容(「MARC」データベースより)
私たちの日常的な社会生活もグローバル化の影響を直接・間接に受けている。現代社会において象徴的な項目や、現代社会学理論に焦点を当てた思考を取り上げ、私たちの生きる現場から、グローバル化時代の現代社会を考察する。

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November 12, 2007

『社会学的想像力のために』刊行

 世界思想社より『社会学的想像力のために』(伊奈正人・中村好孝共著)が刊行される。
 良い作品が上梓されたと、一読者として単純に歓んでいる。
 
 さて、この企画は世界思想社ホームページにある「ただいま進行中」ですでに紹介されていて、じつは、この段階からとても気になっていたものだ。
 特に、副題にある「歴史的特殊性の視点から」という呈示が拡がりを感じさせ、「読書欲」を刺激する。
 だが、それは「ことばのもつ拡がり」に還元されるものではなく、むろん、かれらが拘る論点は適切なものだ。
 否、それだけではない。
 じつは「読み始める前」あるいは「作品を手にする前」から、これら主題と副題のセットを前にして、勝手に「同感・同感……」と感じ入っていたのだ。
 これは、かなり性質が悪い。
 私には別段に「妄想癖」があるわけではないとおもうが、念のために、この観点を本書の「おわりに」から少し確認しておきたい。

「まとめとして……歴史的特殊性という視点を確認しておこう。ミルズは、一つの秩序原理や説明モデルを過度に一般化せず、それらを特定の歴史的現実のなかに根拠づけようとしていた。……「今/ここ」の歴史的現実がもつさまざまな側面が、各モデルを用いて個別記述される。あまりに一般化すると個々の特性は、捨象されてしまう。あまりに個別化すると何も描いたことにはならない。「今/ここ」の記述には、普遍と個別の照らし合わせが必要で、それによってはじめて個々の特性=多様な特殊性を描くことができる。そして、一般化される必然=法則と個々の事象の偶然=個性との狭間に、デリケートなあや、ニュアンスまでも含めた多様性が詳らかにされる。」(『社会学的想像力のために』301頁)

 用いる道具は異なるが、同じ目的地を目指している。
 僭越ながら、そのように感じた。
 この点に関しては、本書の著者たちにもご同意いただけるのではないかと、どこかでおもっている。
 
 まだまだ「学務の多忙状態」から解放されたわけではないが、時間をとってきちんと読了したいとおもう。

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November 08, 2007

『平田清明 市民社会を生きる――その経験と思想』

 故平田清明先生の遺稿集が『平田清明 市民社会を生きる――その経験と思想』のタイトルで晃洋書房から出版される。
 今年が、かれの13回忌になるのだと「はじめに」の冒頭に記されている。
 もう、そんなにも月日が経つのかと、少し驚いた。
 私は平田先生と直接の面識があるわけでもない。
 だから、いってしまえば、大勢のたんなる読者の一人に過ぎない。だが、それでも2つの理由でどうしても不思議なご縁のようなものを感じないではいられない。
 その1つは、大学院時代以来、井出裕久氏と共に一貫して研究仲間でもある友人の佐野正彦氏と関わる。ちなみに大学院時代のことだが、口の悪い先輩諸氏は私たちのことを「3馬鹿」と呼んでいた。
 さて、1994年に佐野氏が鹿児島経済大学(現在は鹿児島国際大学と名称変更されている)に赴任し、そのとき同じく学長として来られたのが平田先生であった。
 そのときも驚いたものだ。
 「えっ、あの平田清明なの……」と、こんな具合だったとおもうが、平田先生は学内行政の面でも次々に手腕を振るわれ、佐野氏から大学の研究環境が格段によくなっていくさまをリアルタイムのように聞いた記憶がある。
 次いで第2の理由だが、それは2000年に私が稚内北星学園大学に赴任したときに、共に来られた佐々木政憲先生に関わる。
 正直に書いてしまうが、十全な信頼の置ける方だとはいえ、どちらかというと「天然系」に属されているとおもえる佐々木先生が平田先生の教え子であると知ったときの驚きはかなりのものだった。
 何しろ、「学風」というか「芸風」、微細な部位へのこだわりがずいぶんと異なるように感じるのだ。 
 というのも、やはり私にとっては、現在でも平田氏とはどこまでも『市民社会と社会主義』であって、かれの名前を思い出すときには、どうしても「個体的所有の再建」ということばは不可避だ。
 読者としては、すでにもう30年以上も前の出来事になるが、あの書への印象はやけに鮮明なままなのだ。

 最後になるが、以下に、簡単な目次を紹介しておく。

   はじめに(平田清明遺稿集編集委員会)
   第Ⅰ部 マルクスと現代――ソルボンヌにて
   第Ⅱ部 市民社会とレギュラシオン
   第Ⅲ部 日仏の比較論
   第Ⅳ部 日本経済への提言
   第Ⅴ部 教育行政・社会運動への発言
   結    ケネー経済表の循環回転論的解明
   あとがき(平田清明遺稿集編集委員会)

 なお、どの遺稿にも簡潔な解題が附されていて、少し不案内な領域を持つ私にはとても手助けになる。 
 

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May 25, 2007

『現代大学生の生活と文化』

 若き友人である浜島幸司さんより『現代大学生の生活と文化――学生支援に向けて』(課題番号16330167 平成16~18年度文部科学省研究補助金(基盤研究B):有効な学生支援に関する実証的研究――学生のキャンパスライフからの考察―― 研究成果・最終報告書)をお贈りいただいた。
 記して謝意を表しておきたい。
 浜島さんとは昨年に「大衆教育社会と〈自己実現の物語〉」( 『稚内北星学園大学紀要』第6号:75-93)を共同執筆させていただいた。
 かれとははじめての試みでもあり、途中には「あれこれ」と行き違いも生じたが、得るものも大きかった。できればまた、ご一緒に研究作業を行いたいと考えている。
 本報告書は「現状提示」に力点があるようで、データの解釈に関してはさして踏み込んだ印象は薄い。
 だが、それで充分に「現状」を考える契機となっている。
 まだ読了はできていないが、浜島さんがご執筆されたなかから、「第13章 ネット空間における大学未公開の授業評価(事例紹介)」と、その流れで「第14章 大学生と剽窃」(鈴木大輔・萩原彩子・南早千江・谷戸士人)とを拝読して、そう感じた。
 以下に「目次」を掲載しておきたい。

目次
第Ⅰ部 調査データ分析
第1章 調査の目的と方法
第2章 学生の視点からの大学教育
第3章 コミュニティとしての大学――21大学調査から――
第4章 大学における部・サークル活動支援の可能性
第5章 「新興大学」大学生の恋愛、交際
第6章 女子学生の多様な将来(ライフコース)展望
第7章 現代の大学生のジェンダー意識
第8章 現代大学生における社会意識形成への大学教育の影響
第9章 ユニバーサル時代の大学入学者選抜の実態
第10章 大学生と大学の変容について

第Ⅱ部 学生生活の諸側面
第11章 大学生における聖なるものの分析
第12章 教育費負担と学生生活費の国際比較
第13章 ネット空間における大学未公開の授業評価(事例紹介
第14章 大学生と剽窃

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March 28, 2007

大谷栄一『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』

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 私の若き友人の一人、大谷栄一氏より『近代日本の宗教運動の政治的機能に関する実証的研究』(課題番号17720012 平成17~18年度科研費補助金 若手研究B)をご恵贈いただいた。
 記して謝意を表しておきたい。
 じつは、かれからは昨年末に上梓された『現代と仏教』(末木文美士編 佼成出版社 2006)もお贈りいただき、まだ、そのお礼もきちんとはできないままでいる。このままでは申し開きのしようもないので、ここで、雑で申し訳ないが、少し読後感なりを書いておきたい。
 かれはそこで「公共宗教としての仏教?(国家)」を執筆されている。戦前の「日蓮主義運動」を鳥瞰しつつ、仏教の「市民宗教」としての可能性について論じ、「市民仏教」という述語化もされている。かれの呈示する理路に基本的に異論はない。ただ、そのタイトルにある「公共宗教」という言辞を拝見したときに、これも自明なことではあるのだが、「宗教」にわざわざ「公共」を冠化しなければならないほどに、それが徹底して世俗化されているという認識に、少し切ない感傷めいた気分になったことを附言しておきたい。
 さて、今回いただいた「報告書」の中心は妹尾義郎研究にある。そのなかの論文「近代仏教運動の政治参加の分析――大日本日蓮主義青年団と新興仏教青年同盟の事例」を拝読――本来ならばこう書くべきなのだが、実情を正直に書くと、簡単に斜め読みさせていただいた。
 丹念な史料の「掘り起こし」からなり、なるほど「実証的研究」と呼ぶに相応しい。そのご苦労に頭が下がる。1点、少し気になったのは「結成当初から、新興仏青は仏教革新運動なのか、社会運動あるいは政治運動なのかが、同盟員たちの間で問題となった」という指摘に関わる了解である。大谷氏は謂わば「内在的視点」へと、つまり、当事者の意味づけへと強く方向性を指示されている。むろん、この視点そのものに異論も反論もない。だから、大谷氏がこうした「新興仏青」のメンバーたちが問題とした論点を呈示するのはよく判る。
 だが、明らかに門外漢であり、もしかするとずいぶんと「外在的に」みているかもしれない私からすると、妹尾義郎あるいは、この団体(新興仏青)の方向性は、まさしく「宗教」にわざわざ「公共」を冠する必要のない時代性にあって、そこで活きいきと大衆的に機能していたものとして構想された宗教――かれらの場合は、日蓮上人の教義思想とその社会的な存立様態への帰還を切実に熱望する、1つの「原理主義(運動)」にみえる。
 こうした視点は方法論的に相容れないのだろうか。だが、私の理解できた範囲では、「宗教」と「政治」との<あいだ>に位置する妹尾義郎ではなく、むしろ「宗教者」でしかない、だが「原理主義者」としての妹尾義郎のほうがはるかに腑に落ちるのだ。
 さらにいえば、妹尾義郎らを「原理主義者」として捉えることで、少なくとも妹尾が歩んだとされる「赤色化」の意味合いもより鮮明にみえてくるのではないか、そんな雑駁な印象をもった。 

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March 23, 2007

頂き物

 ずいぶんとご無沙汰しているが、中国哲学の研究者である、友人の中島隆博氏よりご著書をご恵贈いただいた。記して謝意を表しておこう。
 かれとは、もうずいぶんとお会いしていないが、高水準のお仕事を維持されているようだ。相変わらず、すごい、と感じ入る。
 じつは、今回の場合は、かれを Takahiro Nakajima と表記すべきかもしれない。
 というのも、ご著書のタイトルは"The Chinese Turn in Philosophy"、全編が欧語、より詳しく書くと、第1章から第9章(除く第3章)までが英語、第10+11章が独語、第3章と最終章である第12章が仏語で執筆されている。
 表紙は、敦煌の莫高窟の壁画「涙を流す人々」が中心に配されている。とても落ち着きのある装丁だ。
 Sponsored and published by UTCP(The University of Tokyo Center for Philosophy)とある。UTCP叢書とでも捉えておけばよいのだろうが、「Collection UTCP 3」として出版されている。
 それにしてもUTCPが「共生のための国際哲学交流センター」になるにか、私にはよく判らないままだ。
 とりあえず、以下で簡単に目次を紹介しておこう。
 どこかで時間を取ってきちんと拝読することにしたいが、仏語はからきしだし、どうなるだろうか。

 ⅠDeconstructing Chinese Philosophy
1. Don't Mix! Can Be Dangerous:De Anima in China
2. From Foundation to Difference:On the Conception of the exteriority and the interiority
3. Pour en finir avec ce désir récurrent de TONG統

 ⅡGenealogy of Modern Philosophy in East Asia
4. Pragmatism and Modern Chinese Philosophy: The "genetic method" of John Dewey and Hu Shi
5. Historical Consciousness in Hu Shi and Mruyama Masao
6. Trace of Legitimacy and Justice in Maruyama Masao

 Ⅲ Flickering Shadows of China in Japanese Modernity
7. Genealogy of Nothingness:Nishida Kitaro and China
8. Buddhist Discourses on Contemporary Bioethical Problematics in Japan
9. Like Tongueless Men:Silence at Fushun Coalmine

 Ⅳ The Moments of Tears:Reflecting European Philosophy
10. Der Moment des Tränenvergiessens:Gedanken mit Jacques Derrida zur transzendentalen Ökonomie der Zeit
11. Lexikon zur Zeittheorie Derridas
12. Relire Fonder la morale de François Jullien et redécouvrir une pensée chinoise plurielle


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March 20, 2007

地平分析の遂行

 旧知である樫田美雄氏より「科研費の研究成果報告書」『医学教育のエスノメソドロジー』及び「児童虐待のつくられかた」、「Examining Examinations:on logic of practices in OSCE」(どちらも共著『徳島大学 社会科学研究』20)をご恵贈いただいた。記して謝意を表したい。
 早速、そのなかで比較的読み易そうな印象を持った「児童虐待のつくられかた」を拝読する。
 このご論考は、その副題にあるように「D. スミス「Kは精神病だ」の分析方法を基軸として」、石田文三「児童虐待防止法制定の意義と課題」(『人権と部落問題』2(727)部落問題研究所、2005:6-14)の言説分析を行ったものだ。石田論文を取り上げた「最大の理由は、事例の中に<虐待>という言葉が一度も登場しないからである」という。
 つまり、このご論考は「<虐待>という明示的な言葉を使用せずにこの事例を<児童虐待事例>として,あるいは母親の行動を<虐待>として,読み手が解釈してしまう仕組みを明らかに」することに焦点を据える。
 正直にいうと、樫田氏にしては分析の手さばきがさほど手際のよいものにはなっていないが、これは共著である故ではないかと推察する。たとえば、「中立性レトリック」「防止可能レトリック」などの論述過程にはややこなれていないというか、スキムの先行性を疑わせる感触も残るものの、その理路には総体として「なるほど」と納得した。
 そもそもガーフィンケルの「違背実験 breaching experiment」もそうなのだが、今回の言説分析も、基本的にはひろく「地平分析」であるといってよいだろう。そして、この視線においては、現象学による多くの知的寄与もまだまだ可能だとおもう。どのように接合していくのか、それが大きな課題なのかもしれない。
 いずれにせよ、このご論考によって、かつて井出裕久氏が「過労死問題」において「愛情」と「仕事の信憑」とを接合されて論じられたように(「過労死と〈仕事〉の信憑」『大正大学研究論叢』7、1999:19-38)、「児童虐待」にあっても、場合によっては、そうした側面のあることを知った。換言すれば、それは、私たちがややもするとカテゴリー化の罠に陥る可能性でもある。つまり、例えば「ニート」が上野千鶴子がいうように「残余カテゴリー」であるように、「児童虐待」というカテゴリーもまたそれと同等、あるいは少なくとも近似しているということである。
 この点はきんとと考えなければならないだろう。
 

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March 15, 2007

高度経済成長期という画期

 数年前から、高度経済成長期を現在の日本社会の日常生活の世界に存立する基本的な諸制度を形成する決定的な画期として捉えるためのプロジェクトをすすめている。だが、なかなか具体的なかたちにできないままでいる。
 そうした「苦戦」のなかの1つの成果が、若き友人である浜島幸司氏との共著「大衆教育社会と〈自己実現の物語〉 」(『稚内北星学園大学紀要』第6号:75-93.)である。
 関心をもたれた方は、ネットでも読むことができるので、ご覧いただければ幸甚である。→こちら
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 こうした議論の設定は妥当なものとおもえるのだが、同時に、ややもすると「床屋政談」に堕する可能性もある。拙稿はどうだろうか。
 そうした点では、昨年末に上梓された『都市の暮らしの民俗学3』は、同様の視点において、じつに適切に現実を再構成している作品だとおもう。
  そこに「出産の戦後史」をお書きになっている大出春江氏よりご恵贈いただいたものだが、改めて謝意を表明しておきたい。また、同種のテーマを扱った「出産の正常と異常をめぐるポリティックスと胎児の生命観」(『年報社会科学基礎論研究』4)は、秀逸な作品だとおもう。抄録だが「立ち読み用」として、これもネットで読むこともできる。→こちら
 ところで、本書を拝読した感想として、そこで想定されている読者対象が「研究者」に限定されていないであろうから、その点では「ないものねだり」の感は否めないのかもしれないが、全体的に、つまりどの論考も記述がやや平坦な印象は拭えない。
 とはいえ、こうした地道な作業の積み重ねの先に、より大きな成果が待ち受けているのも、また確かなことだろう。
 その意味でも、改めて、さまざまな「素材」を吟味し、再考の契機をいただけたと感じる。
 

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March 09, 2007

「文字の文化」考

 周藤真也氏の「文字の文化は声の文化を超え出るのか」(『社会学ジャーナル』28 筑波大学研究室 2003;125-139)を読了して数日が経つが、じつは読後感の焦点が上手く定められないでいる。
 題名はオングへの論拠を印象づけるが、内容はそれに直接的に対応したものではない。とはいえ、じっさい、そこで周藤氏はオングに言及もし、論拠もする。
 その理路は次のようなものだ。
 目次
 1 Linuxの興隆とコンピュータ文化
 2 文字の文化としてのコンピュータ文化
 3 文字の文化は声の文化を超え出るのか

 私の理解がどこまで妥当性をもっているのか、はなはだ心許ないのだが、おそらくその要点は、1990年代のLinux系の動向をとおしてUNIX系のOSの社会的な存立様態を典型例とする「コンピュータ文化」がじつは「文字の文化」を基礎としてしか成立不能であること、これを確定することにある。これが目次の「1」と「2」だ。問題は、タイトルと同じ「3」なのだが、私にはここがそれ以前の「1~2」と上手く接合できないでいる。ちなみに、そこは「モダン/ポストモダン」あるいは「近代化/再帰的近代化」という機軸で議論が整理されている。
 少し時間を置いて、再読してみよう。
 ただ、次の指摘は徹底して捉える必要のあることを感じる。

コンピュータを「電子メディア」として考えるとき,そこにはまさに電気メディアと電子メディアを分け隔つ特徴が別の形に変成されて組み込まれている……。このことは,電気的であることと,電子的であることの差異が,アナログとデジタルの差異に相当していることと関係している。デジタルのデータ,デジタルの技術を,われわれの経験においてアナログ的に経験する。

 私の不明さを顕現化させるばかりだが、これまでの私の議論においては、この視点が具体的な相できちんと設定できていなかったとおもう。
 ただ、吉田純氏が『インターネット空間の社会学』(世界思想社 2000)で指摘しているように、「コンピュータ文化」の分析には「エリート―大衆」という構図が必須であり、特に、1995年以降の「WWW」によるインターネットの大衆的な拡がりにおいては、これを明確に捉えておくべきこと、この点を考えると、「コンピュータ文化」が「文字の文化」であるという確定化に異論はないのだが、同時に、この2項対立的構図との関連も、やはり重要な必須の論点であるといえるようにおもう。

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